日本野球機構
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2018年12月6日
【記録員コラム】打たれていないのに・・・

 2月22日掲載の「【記録員コラム】記録員ってオフの間は何をしているの?」でご紹介しましたが、シーズンオフの公式記録員はNPB事務局に出勤して各自分担されたデスクワークをこなしています。
 その内の一つである過去データの補完作業は、現在1950年代の公式試合情報のデータベース化を進めています。この作業を進めて行く中で、非常に珍しい記録が発見されましたので、今回はそれをご紹介します。

 1952年5月15日 阪急対大映9回戦(西宮)の7回裏。
 大映先発の藪本和男投手は6回まで阪急打線を1点に抑えてきたが、7回に5番・中谷順次、6番・東谷夏樹に連続四球を与え、続く7番植田武彦の2球目にダブルスチールを決められ無死二、三塁とされる。次の投球がファウルになり2ボール1ストライクとなったところで二番手として高松利夫投手がリリーフ登板。
 高松は植田を歩かせ、次の代打・野口二郎にも四球で押し出しにより1点を失う。さらに9番の原田孝一に連続ボールで2ボール0ストライクになり、ここで三番手スタルヒン投手に交代。スタルヒンは3ボール1ストライクから原田に左越二塁打を打たれ2点を失う。(以下略)

 注目してほしいのは、カウント途中で投手交代があることです。
(1)2ボール1ストライクで藪本?高松 結果:四球
(2)2ボール0ストライクで高松?スタルヒン 結果:二塁打

 カウント途中での投手交代が1イニングで2回あることも珍しいのですが、ここで問題なのは打撃結果がどちらの投手の責任になるかということです。ルールに詳しい方なら

(1)2-1で交代して四球なので前任投手の藪本の責任
(2)カウントに関わらず安打を打たれたので後任投手のスタルヒンの責任

とお考えになると思います。

 しかし集計は(2)の二塁打(被安打)が、実際に二塁打を打たれたスタルヒンではなく高松に記録されていました。
 過去の公式記録なので簡単に記録訂正というわけにはいかないのですが、同じイニングで連続していることもあり(1)と混同して誤って高松に記録してしまった可能性も否定出来ません。そこで1952年の野球規則を確認すると、該当するルールは以下のようになっていました。(分かりやすく語句を変えてあります)

「投手交代の際のカウントが2-0、3-0、2-1、3-1、3-2の時、安全に一塁に到達した打者は前任投手の責任になる。もしその打者がアウトになるか、野手の失策がなければアウトにされたと思われる時には救援投手の責任になる。」

 「安全に一塁に到達した打者」すなわち四球だけではなく安打も前任投手の責任になると書いてあるので、集計はルール通りだったわけです。翌年1953年に当該ルールは「四球以外は後任投手の責任」と改正されていますが、一リーグ時代を含め1952年以前の試合では同樣に「実際に打たれていないのに被安打が記録」されたケースがあるかもしれません。四球以外で、実際に与えていない投手に記録されたのは1968年のバッキー投手(注※)の件が知られていますが、打たれていないのに被安打が記録されたこのケースは、今までほとんど知られてはいないと思います。筆者自身、バッキー投手の件は本で読んで入局前から知っていましたが、この事は知りませんでした。

 と少々長くなりましたが、お分かりになりましたでしょうか。
 野球規則の変遷により、現在では起こりえないが過去には記録された珍しい記録は他にもいくつかあります。
 今後も、このような記録に関してご紹介していきたいと思います。

【NPB公式記録員 藤原宏之】

※1968年9月18日 阪神対巨人22回戦(甲子園)
4回表、先発のバッキー投手が打者・王貞治に2球続けて厳しい内角球を投じたことがきっかけで両軍入り乱れての乱闘となり、暴力行為により巨人・荒川博コーチとともにバッキーが退場になった。そして2ボール0ストライクからリリーフ登板した権藤正利投手が3-1からの3球目を当ててしまう。1963年に野球規則に書かれた「四球目の投球が死球になった場合は前任投手の責任とする」により、与死球は投球を当てた権藤ではなく前任投手のバッキーに記録された。(1986年に与死球はすべて当該投手に記録と改正)


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