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【球跡巡り・第14回】球都・桐生で迎えた 戦後プロ野球の夜明け 桐生新川球場

 江戸時代には「西の西陣 東の桐生」と言われ、古くから織物産業で繁栄して来た群馬県桐生市。JR桐生駅南口から徒歩5分ほどのところに、直径約80メートルの円形の芝生が広がる新川公園があります。東側の正門入り口付近には、野球ボールの飾りをあしらった赤い御影石があり、「新川球場を偲ぶ」という文字が刻まれています。昭和が終わりを告げようとしていた1987年10月まで、ここは野球場だったのです。

 織物会社の経営で財を成し、桐生市体育協会会長を務めていた堀祐平氏(故人)が発起人となり、野球場のほか陸上競技場、テニスコート、プールを併設した新川運動場の設置を計画。自らも私財を投じ、10カ月の工事期間を経て1928年11月に完成させました。6年後の1934年10月には昭和天皇の行幸を仰ぎます。それを記念して1936年10月に設備一切を市へ寄付する申し出をし、1937年4月から市有施設になりました。

 野球場はプロ野球史に欠かせない歴史を刻んでいます。戦後のプロ野球は終戦から3カ月後に球音が戻ってきました。1945年11月23日、神宮球場で東西対抗戦の初戦を行い、第2戦は翌24日に桐生で開催しました。公式記録員を務めた広瀬謙三は「球場は戦災復興住宅の建設作業場となっており、外野の奥には木材が堆積。大工さんが働いており、試合中も馬車やトラックが出入りする異様な風景。その中で行われた」と戦記を残しています。市内は終戦間際のB29による空襲を免れましたが、前橋、高崎、伊勢崎は大量の焼夷弾を落とされ戦災都市となりました。桐生市はその復興に力を貸していたのです。運搬の馬車が外野を通る度にゲームは中断されましたが、戻ってきた球音と歓声は、平和を実感させる希望の調べでした。

 ところで、それまで東京と大阪が舞台だった東西対抗戦が、なぜ終戦直後桐生で行われたのでしょう。多くの文献では「神宮球場で2試合予定されていたが、22日は降雨中止となった。代替試合を行うにも神宮球場が使えず、鈴木龍二(連盟事務長。後にセ・リーグ会長)の人脈を頼りに、急遽出身地の桐生で開催された」とあります。

 今回改めて調べてみると、11月17日付けの地元上毛新聞に「進駐軍を招待 桐生で野球試合」と題し、クラブチームの全桐生、全前橋、全高崎、職業野球(プロ野球)の東軍、西軍が参加しての試合日程が掲載され、24、25日の2日間は「全日本職業野球団東西対抗戦」が組まれていました(25日の試合は西軍が進駐軍との試合のため帰阪することになり中止)。戦後桐生市の近隣、太田の中島飛行機工場には1000人、旧前橋陸軍予備士官学校には2000人の米国軍人が進駐。東西対抗戦は軍人のために、あらかじめ組まれた慰安試合だったのです。

 上毛新聞によると神宮球場での東西対抗戦開催5日前の11月18日には、新川運動場で全桐生対セネタース戦が行われています(試合は10対4でセネタースが勝利)。セネタースは戦後、横沢三郎監督の下に結成された新興球団で、東西対抗戦で彗星のごとく現れたヒーロー・大下弘が在籍。11月6日に連盟への加盟登録を行い、これがチーム初の対外試合でした。この時点で、セネタース以外に活動を再開したチームの記録は残されていませんから、戦後のプロ野球は桐生で夜明けを迎えたことになります。

 戦禍を免れた野球場でしたが、1947年9月のカスリン台風ではフェンスが流失し、スタンドは倒壊の壊滅的被害(写真参照)。それでも復旧工事を行い、1958年までに17試合のプロ野球を開催しました。1961年には大規模な改修工事が行われ、野球専用施設となり桐生新川球場と名称を変更。春夏合わせて26回も甲子園に出場した桐生高校や、社会人の都市対抗野球で準優勝した全桐生らの活躍で「球都」と呼ばれた桐生の、野球のメッカになりました。

 その使命を終えたのは、前述のように1987年でした。10月4日に新川球場サヨナラ記念マラソン野球大会が行われ、60年の歴史に幕を閉じました。跡地はJR桐生駅周辺整備事業の一環で、滝をイメージした噴水や野外ステージが作られ、「水と緑」をテーマにした憩いの場として市民に親しまれています。その中央にある円形の芝生広場が、球都の歴史を偲ばせます。

【NPB公式記録員 山本勉】

参考文献・上毛新聞(1945年11月17~24日)
写真提供・桐生市
野球チケット博物館