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【球跡巡り・第19回】284勝サブマリンを育んだ鉄の街の野球場 釜石小佐野球場

 3両編成のJR釜石線。花巻駅から快速列車に揺られ1時間50分。終点釜石駅がある岩手県釜石市は、日本の近代製鉄発祥の地として栄えた三陸沿岸の「鉄の街」です。

 日本選手権7連覇の偉業を成し遂げ、“北の鉄人”と称された新日鐵釜石ラグビー部と、“東北の暴れん坊”の異名で社会人の都市対抗野球大会に18回出場した野球部が、街の人々の誇りでした。

 野球部は釜石鉱山時代の1932年に創部され、その後母体の組織変更により日本製鐵、富士製鐵、新日鐵と名称が変わった中で、富士製鐵時代の1952年6月、市内小佐野(こさの)に野球部専用球場を建設しました。独特のサブマリン投法でNPB歴代7位の通算284勝。阪急の黄金時代を支えた山田久志さん(70)の野球人としての礎は、ここで築かれました。

 球場の最寄り駅はJR小佐野駅。車社会となった今日では、1日の乗車人員はわずか50人。昭和の面影が残る小さな駅舎の写真を見ながら、山田さんが52年前の記憶をたどります。「懐かしいねえ。この駅前に野球部専用の寮があってね。球場も立派で、さすが大きな会社だけのことはあると思ったよ」。山田さんが秋田県の能代高校を卒業し、入社したのは1967年。時代はちょうど高度経済成長期。しかも、製鉄業や鉄鋼業は当時花形の基幹産業でした。

 「午前中働いて、午後から練習。球場にナイター設備はなかったけど、何か灯りを照らして日が暮れても練習をしていた。ボール練習は出来ないけど、走ったりして体力強化はできたから。とにかく走らされたよ。球場から山のほうへ行き、釜石駅を回って、川沿いを小佐野まで帰って来るコース。厳しかったなあ」。

 豊富な練習量と、入社後に取り組んだアンダースロー投法が奏功。1年目の都市対抗野球で優勝候補の日本生命を3安打完封し、その名を全国に轟かせます。その年のドラフト会議で、西鉄から11位指名を受けましたが入団拒否。翌年は1回戦で八幡製鐵に敗れますが、チームを2年連続全国大会へ導いた実績が評価され、阪急から1位指名を受けました。この時、腰椎分離症を患っていたこともありチームに残留。翌年、都市対抗野球出場後の8月に正式契約を結び、入団しました。

 「私は釜石に拾ってもらったんです。茨城県の日本鉱業を受験したけど、落ちちゃってね。それでここに入ったの。釜石には2年半しかいなかったけど、全てはここで学んだ。野球の基礎知識、ピッチングフォーム、投手としての心得、先輩との接し方、社会人としての生き方。釜石に行ってなかったら、間違いなくその後の野球人生はなかったと思う。感謝しても、しきれないですよ」。

 阪急では入団3年目の1971年に22勝、防御率2.37で最優秀防御率のタイトルを獲得すると、翌年は20勝を挙げ最多勝。1976年からはプロ野球初の3年連続リーグMVPと、球史に名を刻みました。日本鉱業の入社試験に落ち失意の底にある18歳の少年に、鉄の街の野球部が手を差し伸べていなかったら…。いまだ語り継がれている1971年巨人との日本シリーズ、王貞治との名勝負は実現しなかったかもしれません。

 栄華を極めた製鉄業でしたが、時代は移ろいます。鉄鋼業界の斜陽化により、釜石製鉄所の高炉を閉鎖するのに伴い、合理化の一環として野球部も1988年12月で休部。プロ野球を2試合開催し、山田さんが青春の汗を流した小佐野球場は1997年4月に解体され、45年の歴史に幕を閉じました。「最後のイベントには声を掛けてもらったけど、都合がつかなくてね。出席できなかったことは今でも心残りです」。山田さんが初めて釜石を訪れた時、汽車の車窓から見て驚愕した製鋼工場の高さ70メートルの3本の煙突も、今はありません。

 球場跡地には老人介護施設が建設されました。その一角に、ホームベースを連想させる五角形の台座に「東北の暴れん坊」と刻まれた記念碑が建立されています。その碑には山田さんはもちろん、鉄の街の期待を背負って戦ったナインの名も記されていました。

【NPB公式記録員 山本勉】

調査協力・釜石市立図書館
釜石市市民生活部生涯学習文化スポーツ課