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【球跡巡り・第67回】400勝左腕金田正一のパワースポット 長野市営城山野球場

 長野県長野市にある善光寺。創建から約1400年の歴史を誇る名刹から歩いて5分ほどのところに、グラウンド一面に芝生が敷かれた城山(じょうやま)公園があります。今は市民が憩う「ふれあい広場」となっている場所にはかつて、戦前からの長野県の球史を刻んだ長野市営城山野球場がありました。

 野球を中心に使われていた城山記念公園に県内初の本格的野球場が完成したのは1926年7月でした。甲子園球場は2年前にオープンしていましたが、神宮球場の開設はこの3カ月後。全国的にも野球場が希少だった大正時代に、県内では同年9月に東筑摩郡本郷村(現松本市)に県営球場も開場し、長野県での野球熱の高さが伺えます。

 開場翌年の1927年4月29日にはアメリカから来日の黒人チーム「フィラデルフィア・ロイヤル・ジャイアンツ」が、全信州選抜チームと対戦しました。このチームは数名のニグロリーガーと寄せ集めのセミ・プロ選手で構成されていましたが実力は確かで、同志社大、関西大などと24試合を行い、23勝1分けと日本チームを圧倒。全信州選抜も0対8でシャットアウト負けを喫しましたが、迫力ある本場アメリカのプレーは観衆を沸かせ、長野県の野球界に大きな刺激を与えました。

 プロ野球は一リーグ時代の1947年8月17日の東急対阪急戦を皮切りに、1961年までの間に41試合の公式戦を行なっています。この球場で群を抜く数字を残したのが通算400勝を挙げた金田正一(国鉄、巨人)投手でした。金田は後楽園球場での169勝を最多に、全国30都道府県、53球場で勝ち星を挙げていますが、ここ城山野球場では地方球場最多の9勝(3敗)をマーク。金田に次ぐ勝ち星は真田重男(松竹、阪神)の3勝ですから、長野のプロ野球ファンにとって稀代のサウスポーの活躍は色濃く刻まれていることでしょう。

 金田はプロ20年間で「ダブルヘッダーでの連勝」を4回達成していますが、その2回目はここで記録しました。1954年7月28日の国鉄対広島戦でした。第1試合は接戦となり、5対7と2点差で迎えた9回裏に国鉄が町田行彦の同点2ランで追いつき延長戦に。ここで第2試合に先発予定だった金田が急遽10回表のマウンドに上がります。打者3人を7球で簡単に打ち取ると、その裏に鵜飼勝美がサヨナラ安打を放ち金田に勝利が記録されました。

 20分の休憩を挟んで始まった第2試合。金田は予定通り先発マウンドに立ちました。1対1で迎えた5回裏に自ら右中間スタンドへ勝ち越し本塁打を放ちますが、8回に小鶴誠に同点アーチを浴び、この試合も延長戦へ。10回表を無失点に抑えた時点で投球数は141。降板も視野に入ったその裏、箱田弘志がレフトへ劇的なサヨナラ本塁打を叩き込みました。国鉄はダブルヘッダーで連続サヨナラ勝ちを収め、金田は2時間半足らずの間に白星2つを手にしました。金田が善光寺を参拝したか定かではありませんが、この地は抜群のパワースポットだったようです。

 高校野球の試合では主要球場として、県大会にとどまらず北信越大会などの熱戦の舞台となりました。今も語り継がれる本塁打があります。1990年6月3日に行われた春季北信越地区高校野球大会の星稜対信州工(現東京都市大学塩尻)戦でした。入学してまだ3カ月、1年生ながら星稜の4番を任された松井秀喜選手(のちに巨人、米大リーグ)が、センター後方にあるバックスクリーン直撃のホームランを放ち、スタンドを埋めた観衆の度肝を抜いたのです。

 その一発をネット裏のグラウンドレベルから記録員として見ていたのは、現在ルートインBCリーグで記録長を務める元田雅之さん(55)です。「弾丸ライナーでバックスクリーンに当たりました。打球のスピードも速かったですね。22歳で記録員を始めて30年以上になりますが、いまだに忘れられません」。松井が“ゴジラ”の愛称で呼ばれ、全国区の高校球児になるのは1年以上先のこと。「試合後にトイレで会ったので、スゴかったね、と声をかけたら『ありがとうございます』と丁寧にお礼を言ってくれました。スゴイ選手だとは思いましたが、その後メジャーリーグにも名を刻む選手になるとは正直思いませんでしたね」。駆け出しの記録員時代に遭遇したあどけない15歳の高校球児の姿は、衝撃の一打とともに今も脳裏に焼き付いています。

 野球場は松井選手がその一撃を放ってから10年後の2000年のシーズンを最後に閉鎖されました。その年の4月、篠ノ井東福寺の南長野運動公園に長野オリンピックスタジアムが完成し、役割を終えたのです。以前から城山公園は桜の名所でしたが、野球場の解体後はスタンドだった斜面に桜を植樹したほか、遊歩道も整備されました。大正時代から長野県の球史刻んだ地は、市民憩いの場に姿を変えています。

【NPB公式記録員 山本勉】

調査協力・元田雅之さん
参考文献・「長野市の110年」一草舎出版
写真提供・元田雅之さん