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【球跡巡り・第10回】昭和の時代に勇者たちが駆けた舞台 阪急西宮スタジアム

 阪急西宮北口駅の南東改札を出ると、西日本最大級のショッピングセンター「阪急西宮ガーデンズ」が視界に飛び込んで来ます。かつてこの場所には、プロ野球の草創期から数々のドラマを生み、阪急ブレーブスの本拠地として勇者たちが駆けた西宮球場がありました。

 建設の命を下したのは阪神急行電鉄(現阪急電鉄)創始者の小林一三。同じ在阪の鉄道会社・阪神電鉄に対してライバル心を抱いていたとされ、甲子園にも優る豪華な設計図が描かれました。しかも建設予定地は西宮北口駅の真上。「ターミナル・スタジアム」という驚天動地の計画でした。しかし、神戸線と今津線のクロスした辺りをホームベースとすると、グラウンドに必要な円周の中に阪神電鉄が所有する土地が黒点のように存在。それらの用地買収が上手く行かず断念し、駅から徒歩3分の遊戯施設「大毎フェアランド」の跡地に造られました。

 職業野球が1年目のシーズンを終えた1936年冬に着工し、5カ月間の突貫工事で1937年5月に完成。シカゴではなく、ロサンゼルスにあったリグレーフィールドを参考に、内外野天然芝、日本初の二層式スタンドなど斬新なアイデアが取り入れられました。甲子園球場に対抗してバックネット後方のスタンドには「銀傘」が設置され、開場当初は5万5000人の観客を収容できました。

 球場が最も輝いたのは、ここを本拠地とした阪急が1967年から12年間で9度のリーグ優勝を果たした時期でしょう。1967年にチーム創設32年目で悲願の初優勝を遂げると、パ・リーグきっての強豪に成長。1975年からはリーグ4連覇、3年連続日本一と黄金期を築きました。また、1971年のオールスターゲームでは全セの先発江夏豊(阪神)が、3回を9者連続三振という不滅の大記録。日本シリーズで「江夏の21球」伝説が生まれる8年前、「41球」の舞台となったのが西宮球場でした。

 史上初の放棄試合もここで起きました。1946年9月27日、セネタース対ゴールドスター12回戦は午後1時開始予定でしたが、宝塚にあったセネタースの宿舎付近は早朝から大雨に見舞われました。試合開催は不可能と勝手に判断した選手たちは、なじみの運道具店にバットを買いに出かけたり、知人の家を訪ねるなど、それぞれが勝手に行動をします。ところが昼近くになると、朝の天気が嘘のように晴れ上がったのです。あわててユニフォームで駆けつけた選手が4、5人いました。連盟関係者は宿舎に電話をかけ、開始を30分遅らせる対応もしましたが、結局9人揃うことはなく、午後1時45分に主審・金政卯一が放棄試合を宣告。規定通り9対0でゴールドスターが勝利を得て、セネタースには罰金、観客への弁済金として15,928円の支払いが命じられました。通信手段の整備が万全でなかった戦後の混乱期ならではの“事件”です。

 1980年代半ば、三塁側の一階内野席にはエレクトーン(電子オルガン)演奏のブースがありました。当時大学生で阪急のファンクラブに入っていた伊藤修久さん(55)=現NPB職員=は、あるとき担当の女性にクインシー・ジョーンズの「ジャスト・ワンス」をリクエスト。すると「イニングの合間に、ジャジーなメロディーが流れ、嬉しいと同時に、すごく恥ずかしい気持ちになったことを覚えている」そうです。

 「上質な阪急」を代表するランドマークの運命が一変したのは、1988年秋のブレーブスの身売りでした。1990年限りで本拠地としての役目を終え、その後は阪神の試合を開催したり、競輪やアメフトなどにも使用されましたが、2002年を最後に閉鎖。その後解体され、冒頭の施設に様変わりしました。その一角には阪急西宮ギャラリーがあり、阪急ブレーブスの栄光の品々が展示されています。

【NPB公式記録員 山本勉】

参考文献・ 「昭和の東京 記憶のかけら」矢野誠一・日本経済新聞出版社
「野球場大特集 2001夏季号」ベースボール・マガジン社
写真提供・ 野球チケット博物館