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【球跡巡り・第27回】被爆から5年 市民に夢を与えた舞台 長崎商業グラウンド

 東洋と西洋が出会いと融合を重ねた歴史息づく街、長崎県長崎市。この地で初めてプロ野球公式戦が行われたのは二リーグに分立した1950年。被爆から5年後のことでした。

 JR長崎駅前から路面電車で12分。2000年のオールスターゲーム第3戦も開催されたビッグNスタジアムの最寄り駅「大橋」で下車。近くにある県立総合体育館が建つ場所には、1986年まで市立の長崎商業があり、その校庭で開催されました。

 徐々に復興が進む市街地に新緑が映える6月1日。セ・リーグの西日本と大洋が対戦しました。ともにリーグ分立を機に誕生の新興球団にもかかわらず、県下初の公式戦とあり大賑わい。試合開始は午後5時でしたが、7時間前の午前10時からファンが入場の列を成し、2時間前に会場は超満員。「満場歓声、拍手の嵐」。主催した地元新聞社は大きな見出しと記事、そして4枚の写真で翌日の1面を埋めています。巨人在籍時に“塀ぎわの魔術師”と呼ばれた大洋の外野手平山菊二の華麗な守備に、のちに西鉄ライオンズ黄金期を支えた西日本の関口清治選手の豪快な本塁打に、ファンは酔いしれました。湧き上がる歓声と、こだまする球音は平和を象徴する調べでした。

 長崎とプロ野球は戦前から縁がありました。巨人軍の初代代表を務めた市岡忠男(1962年野球殿堂入り)は市内の勝山小学校(1997年に閉校)出身で、郷土への親しみからたびたびオープン戦を開催。公式戦がスタートする前年の1935年10月8日には、アメリカ帰りの巨人と地元社会人野球チーム・全三菱の試合も行われています。巨人には長崎商業出身の内堀保捕手も在籍。映画の入場料が25銭の時代、前売り内野席が90銭でしたが瞬く間に完売と人気は絶大でした。

 ところが、市内には当時公設球場がなく、会場はいつも今の長崎電鉄「原爆資料館」電停近くにあった三菱重工所有の野球場でした。爆心地に程近いこの場所は原子爆弾の投下により壊滅的被害を受けました。戦後の一時期は米軍に占領されていたこともあり、復旧が遅れます。

 そこで白羽の矢が立ったのが長崎商業のグラウンドです。序章は高校野球でした。「青少年に野球で希望を与えよう」と、県高野連は終戦から3年後の1948年春に九州大会を誘致。生徒、職員総出で球場造りに勤しみました。内野スタンドは土を盛り固ため、外野フェンスは木製の板を並べました。極め付きはバックネット。三菱重工が戦時中、米海軍の潜水艦の侵入を防ぐために長崎港に張った金網を再利用しました。

 公式戦開催時は長崎商業野球部の1年生で、後に阪神、東映などで活躍した河津憲一さんは生前「とてもグラウンドとは呼べないほど石ころばかり。暇さえあれば石を拾っていた」と言い、同期の渡部稔さんも「フェンスにボールが当たっても跳ね返らない。球を外に逃さないだけの柵だったよ」と懐かしんだグラウンド。お世辞にも好環境とは言えませんでしたが、戦前からプロ野球に親しみ、戦後初の開催を渇望していた市民にとっては、十分すぎる夢舞台でした。

 開催翌年の1951年4月、いまビッグNスタジアムが建つ場所に市営の大橋野球場が完成。したがって、校庭での公式戦開催は1試合だけでした。長崎商業は1986年春に市郊外の泉町へ移転。跡地に建つ県立総合体育館のそばには、同校の記念碑と被爆の歴史を伝える銘板が設置されています。

【NPB公式記録員 山本勉】

調査協力・長崎市立長崎商業高校
長崎県立総合体育館
参考文献・読売新聞「追憶の舞台」(2009年4月9日)
長崎日日新聞(1950年6月2日)
「激動を伝えて一世紀」長崎新聞社
写真提供・長崎市立長崎商業高校