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【球跡巡り・第68回】「南海」唯一のノーヒットノーランが記録された 神戸市民運動場

 神戸三宮から西へ約15分。山陽電鉄本線の起点駅で、阪神電鉄神戸高速線の終点駅になっている西代駅。地下駅の改札を通り地上へ出て少し歩くと、緑が美しい西代蓮池公園が視界に入ります。この地にはかつて神戸市民運動場(のちに神戸市民球場)がありました。その歴史は古く、開設は1928年。昭和天皇即位の御大典記念行事の一環で建設され、陸上競技場や水泳場などを併設した総合運動公園でした。

 1936年に公式戦が始まったプロ野球は当初からここを利用し、地元球団の阪神は創設初年度にオープン戦を行っています。初の公式戦は1939年5月14日。阪急対巨人、ライオン対タイガース、巨人対南海の試合が1日で行われました。全3試合で失策は4つ記録されましたが、悪送球3に送球の捕球ミスが1。68あった内野ゴロは全て無難に処理されています。当時、常打ち球場以外のグラウンド状況はほとんどが劣悪でしたが、神戸市民運動場はかなり整備が行き届いていたと想像できます。

 そんな好環境も味方にプロ野球史上17度目、南海球団初のノーヒットノーランを達成したのは別所昭投手です。1943年5月26日の対大和戦でした。許した走者は初回と7回。ともに苅田久徳に四球を与えたもので、野手は無失策で快記録を援護します。別所は7つの三振を奪い、内野ゴロは14。8回、呉新亨を右飛に打ち取るまで外野へ打球を飛ばさせない圧巻の投球内容でした。

 戦局が厳しかったこの時代。どの球団も選手が徴兵され戦力の低下は否めませんでした。南海の頼れる投手は2年目の別所に、新人左腕・丸山二三雄の二人だけ。9月から10月にかけて、球団ワースト新記録となる11連敗(引き分け1を含む)を喫しました。そんな中で別所はこの年、チーム勝利数26のうち14勝(23敗)をマーク。投手陣が圧倒的コマ不足の中で達成した若きエースの快挙は、1988年まで続いた「南海」の球史の中で唯一の偉業でもありました。(1944年6月~1947年5月は近畿日本、近畿グレートリングと改称)

 阪神の二軍本拠地として若トラ育成の拠点にもなりました。セ・リーグの鈴木龍二会長の発案で、大リーグにならい「マイナーリーグとして成長させる」と所属6球団の二軍で結成された新日本リーグが組織化されたのは1954年。一軍とは異なるニックネームが付けられ、阪神は「ジャガーズ」と名乗り神戸市民運動場に居を構えたのです。公式戦は前後期制で、総当たり5回戦で行われました。ジャガーズは後期を制し、前期を制した「ジュニア・ジャイアンツ」と名乗った巨人と年度王座決定戦(3回戦制)で対峙。1勝1敗の後の第3戦に勝利し、見事初代王者に輝きました。

 翌1955年に今に続くイースタン、ウエスタン両リーグが組織されたこともあり、新日本リーグはこの年を限りに自然消滅します。わずか2年の活動期間でしたが、ジャガーズのユニフォームに袖を通した三宅秀史河津憲一山本哲也らはその後、タイガースの貴重な戦力に成長を遂げました。

 プロ野球最後の公式戦となった1961年10月11日の阪急対西鉄戦では、球史に残る記録が刻まれました。1対1と同点の8回裏、西鉄のマウンドを任されたのは3日前の10月8日の東映戦で、当時の日本記録だったスタルヒン(巨人)の「シーズン40勝」を22年ぶりに更新する41勝目を挙げた稲尾和久投手でした。稲尾がこの回を無得点に抑えると、9回表に豊田泰光が勝ち越しの2点本塁打を放ち、その裏を稲尾がピシャリと抑え西鉄が勝利。稲尾はこの年の白星を42に伸ばしました。

 その年のシーズンオフのことです。勝利、敗戦投手を決める明確な規定がなかった1939年に記録されたスタルヒンの勝利は1952年までは42勝とされ、1953年に40勝に修正された経緯がありました。稲尾の新記録樹立で火がつき、さまざまな論議がマスコミを通じてなされます。機構側も事態を重視。関係者が協議のうえ、1962年3月30日に「1939年のスタルヒンは42勝。稲尾はタイ記録」の公式見解を発表したのです。従来の記録を2勝上回っていた新記録は、この決定でタイ記録に格下げされました。神戸市民運動場での1勝がなければ記録はタイどころかパ・リーグ記録止まりの41勝だっただけに、価値ある白星として今も輝きを放ちます。

 その後は交通の便の良さもあり、アマチュア野球の球場として重宝されましたが、1988年に神戸総合運動公園野球場(現ほっともっとフィールド神戸)が完成したこともあり、徐々に役目を終えます。1995年1月17日の阪神淡路大震災で、球場のある長田区は甚大な被害を受けました。グラウンドには30棟の仮設住宅が建設され、ピーク時には500人以上が暮らし、ベンチには洗濯物を干す光景が広がったと伝わります。

 あれからまもなく30年。球場は復興が進んだ2000年で取り壊され、跡地はジョギングコースも整備された公園に姿を変えました。その一角に、投手プレートやベースを模した石が置かれており、かつて球場があったことを偲ばせています。

【NPB公式記録員 山本勉】

参考文献・スポーツニッポン「内田雅也が行く 猛虎の地(1)」2019年12月1日