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【球跡巡り・第70回】日本で唯一 校庭に造られた外野フェンスのある野球場 佐賀市民グラウンド

 街の中心を長崎街道が横断する佐賀県佐賀市は明治期の建造物も多数残り、過去の偉人たちが生きた歴史を感じさせます。ここに市内初の野球場となる「佐賀市民グラウンド」が造られたのは1948年3月。何とその場所は公立中学校の「校庭」でした。

 戦後の復興期、市民のスポーツ熱は高まります。1947年9月に市の野球場建設実行委員会が開かれ、決定した建設地はその年4月に開校した市立第二中学校に隣接のグラウンドでした。わずか半年の工期で完成した野球場は両翼85.4メートル、中堅106.7メートルで、ネット裏と内野に土盛りのスタンドがあり、外野後方はトタン板で囲まれていました。福井県の福井商業や佐賀県の唐津高校なども、校庭にスタンドを設置し野球場として使用していましたが、外野の囲いまではありませんでした。ここ佐賀市民グラウンドは日本で唯一の「校庭に造られた外野フェンスのある野球場」だったのです。

 プロ野球は1950年と52年に大洋の主催でセ・リーグ公式戦を2試合行っていますが、興行的に一番の盛り上がりを見せたのは球場完成1年後の1949年3月4日に行われた、阪急対大映のオープン戦でした。地元紙の佐賀新聞は「プロ野球の好試合に3万余のファンで球場開設以来の超満員。ホームラン競争では大映の小鶴誠外野手が3本をかっ飛ばし、観衆を魅了した」と伝えています。

 当時、球場近くにあった赤松小学校(現在は球場跡地に移転)の児童たちも観戦に駆けつけました。今も校長室の書棚に残る「校務日誌」に「3月4日(金曜日)、晴天。阪急対大映のプロ野球を観覧」と記されていました。石田正紹前校長は「初めてプロ野球を見て、みんなで盛り上がったのでしょう。敗戦から徐々に立ち直りつつある中、スポーツ観戦で子供たちを元気づける。学校教育が粋ですよ」と70余年前の教育現場に思いを馳せました。

 市立第二中学校は1951年から城南中学校と改称しました。その中学へ1955年に入学し、校庭にある野球場で白球を追ったのは近鉄、日本ハムでプレーした永淵洋三さん(81)です。

 永淵さんは社会人野球の東芝で投手兼外野手として活躍し、1968年にドラフト2位で近鉄に入団。登録は投手でしたが、勝負強い打撃が買われ、1年目は投打の「二刀流」で起用されました。メジャーリーグで活躍する大谷翔平選手(エンゼルス)が日本ハムに入団した2013年、かつての二刀流選手として注目を集めたので覚えている人もいるでしょう。「大谷君のことはたくさん取材を受けました。でも野球場のことは初めてです」と苦笑いしながら、セピア色の記憶をたどりました。

 「野球場は中学校のグラウンドと兼用でした。普段は体育の授業で使い、体育祭もやりましたよ。もちろん、野球部の練習は毎日そこでやっていました。」プロ野球史に「二刀流」として名を残した永淵さんの原点は、まぎれもなく「校庭」と「野球場」のツーウェイの場所だったのです。

 中学時代、サウスポー投手として抜群の制球力で注目を集め、高校は県内有数の進学校である佐賀(現佐賀西)に進みました。「私が高校1年生の時(1958年)まで、夏の甲子園予選は赤松中学校のグラウンドで行われました。しかも、40回の記念大会で1県1校出場ができました。私はコントロールがよかったのでバッティングピッチャーとして重宝され、ベンチにも入れてもらいました」。引き分け再試合となった鹿島高校との準決勝を4対3で辛勝。佐賀商業との決勝戦は延長戦を1対0で制し、永淵さんは母校の校庭で甲子園出場を決める希少な体験をしたのです。

 1959年春に市内本庄町に佐賀球場が新設されると、永淵さんの証言通りに夏の甲子園予選はそこで開催されました。時を同じくして、役目を終えた市民グラウンドはスタンドや外野フェンスが撤去され、城南中学校専用の運動場になりました。その城南中学校も1992年に移転し、翌93年からは前述のように赤松小学校として歴史を刻んでいます。

 永淵さんの案内でその小学校を訪ねました。「ここに来るのは久しぶりです」と語りながら重厚な「鯱の門」の校門をくぐり、左手に進むとグラウンドが広がります。「内野は土盛りのスタンドで古い木製の椅子がありました。1000人ぐらいは座れたのかなあ。バックネットがある位置は昔とほとんど同じですね。」歳月を感じさせないほど鮮明に、当時の情景を記憶に留めていました。

 10年ほど前までは地元の仲間たちと草野球に興じていましたが、それも引退。プロ野球中継はあまり見ないそうですが、二刀流の先輩として大谷翔平選手の動向は気になります。「確かに私も二刀流をちょっとだけやりましたが、体が持ちませんでした。大谷君はバケモノですよ。」時代や環境は違っても、プロという最高峰の舞台で苦労を実体験した永淵さんの言葉には重みがありました。

【NPB公式記録員 山本勉】

調査協力・永淵洋三さん
松永一成さん
佐賀市立赤松小学校
参考文献・佐賀新聞(1949年3月5日)