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【球跡巡り・第73回】西鉄ライオンズ黄金期の準フランチャイズ 小倉豊楽園球場

 九州の玄関口、福岡県北九州市。山陽新幹線が停車するJR小倉駅の北側一帯はかつて海で、1924年ごろから工場を誘致するため埋め立てにより造成されました。その場所に開発の一環として戦後の1948年に造られたのが、西鉄ライオンズの準本拠地としても使用された小倉豊楽園球場です。

 1948年1月に着工し、総工費2500万円を投じて建設され、同年7月完成。8月4日に行われた阪急対中日9回戦がこけら落としのゲームで、阪急が今西錬太郎投手の好投で4対0と快勝しました。開場当初は両翼フェンスまでの距離が97.6メートルあり、本塁打の出にくい球場だったと伝わります。

 野球場があった場所はいまの小倉駅北口前で、地上30階建ての「リーガロイヤルホテル小倉」がそびえます。新幹線の改札口から徒歩2、3分で、商業施設もありにぎわっていますが、当時の雰囲気は全く違っていました。「(初代の)小倉駅が移転したことで、球場の周辺は雑草がぼうぼうと生えていました。その中を歩いて球場へ行ったことが強烈に印象に残っています」と70年以上前の情景を語るのは、元九州朝日放送アナウンサーの泉建志さん(83)です。

 「小学生のころから球場に通いました。プロ野球はたまにしかやらなかったので記憶に残っていませんが、社会人野球では八幡製鉄と門司鉄道管理局の試合が印象に残ります。高校野球は小倉高校が1948年に夏の全国大会で優勝(2連覇)したので、49年はよく練習試合を見に行きましたね」。夏の甲子園大会全5試合を45イニング連続無失点の快投で頂点へ駆け上がった、福嶋一雄投手の雄姿を追いかけた思い出が蘇ります。

 悲しい出来事もありました。1951年秋に行われた第9回九州地区高等学校野球大会のことです。「長崎商業と常盤高校(福岡県)の試合でした。常盤のピッチャーが投じたボールが、長崎商業の吉松選手の左胸に当たり倒れ込む場面に遭遇しました。すぐに救急車で搬送されて行きましたが、とてもショックで2試合目に行われた小倉高校の試合内容は全く覚えていません」。その後、不幸にも吉松選手が帰らぬ人となった事故を忘れることはありません。

 プロ野球は1957年までに70試合が行われました。中でも福岡県に拠点を置く西鉄は58試合を興行。フランチャイズ制度が確立された1952年に、県内では平和台の18試合に次ぐ12試合を開催。次年度以降も平均7試合前後を行う準本拠地球場の位置付けで、徐々にファンも増えていきました。

 西鉄球団初のサヨナラゲームはここに刻まれています。二リーグ分立の1950年に西鉄クリッパースとして結成されたチームは、3月27日に門司球場で県内初のお披露目を行い、4月2日に小倉豊楽園で初試合。阪急、南海相手に変則ダブルヘッダーを行いましたが、その第一試合の阪急戦でした。西鉄先発の武末悉昌投手が9回まで相手打線を被安打6、1失点に抑える好投。同点で9回裏西鉄の攻撃を迎えます。二死ながら満塁の好機を作ると、八番に入っていた武末が阪急先発の阿部八郎投手から右翼手の頭上を越す一打を放ち、三塁から深見安博選手が生還。チーム10試合目に訪れたサヨナラ劇は、パ・リーグ初の投手が放ったサヨナラ安打でもありました。

 西鉄ライオンズ黄金期をバットでけん引した豊田泰光中西太両内野手は、ともにメモリアルな一発を放っています。豊田はルーキーイヤーの1953年3月24日の阪急戦で、柴田英治投手からレフトスタンドへプロ入り初本塁打を記録しました。水戸商高から鳴り物入りで入団し、開幕2戦目の3月21日にデビューを果たすも(対近鉄戦)終盤の貴重な場面で失策。初スタメンした翌22日の近鉄戦でも、初回に大量5失点に繋がる失策を犯していただけに、通算6打席目で描いた放物線の喜びは大きかったことでしょう。

 西鉄最強打者と言われた中西は、自身初の満塁本塁打をここで記録しました。入団4年目の1955年4月26日の東映3回戦で、樽井清一投手からレフトスタンドへ340フィート(約104メートル)弾。入団当初から“怪童”と言われた中西も、直近2年間は満塁のチャンスに16打席でわずか1安打と苦しんでいただけに、面目躍如の一発。春先の一打で勢い付くと、この年は首位打者と本塁打王の2冠を獲得しました。

 戦後、いまの北九州地区の野球復活を支えた小倉豊楽園球場でしたが、国鉄(現JR)小倉駅の移転事業に伴う用地確保もあり1957年のシーズンで閉鎖されました(球場はその後も3年ほど存在)。わずか10年ほどで役目を終えましたが、ライオンズの球史をたどるには欠かせない球場です。その後、この地域の野球は翌58年に完成した小倉市営(現北九州市民)球場へ戦いの場を移しました。

【NPB公式記録員 山本勉】

調査協力・泉建志さん
田北昌史さん
松永一成さん