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【球跡巡り・第17回】1試合13本塁打と完全試合の舞台 県営兼六園野球場

 加賀百万石の城下町として栄えた石川県金沢市。その中心部にある兼六園は、岡山市の後楽園、水戸市の偕楽園と並び日本三名園の一つに数えられ、多くの観光客でにぎわっています。かつて、その一角に県営の兼六園野球場がありました。

 第2回石川国体の開催に合わせて、歩兵練兵場跡地に1947年10月に完成。開設時は両翼85メートル、中堅までは90メートルと極めて狭い球場で、プロ野球を初めて開催した1948年4月25日の大陽対急映3回戦では両チームで6本塁打が乱舞。これをきっかけに同年9月には両翼90メートル、中堅97メートルまで拡張されました。

 それでもプロ野球の猛者たちには狭小でした。翌1949年4月26日に行われた巨人対大映4回戦は、両チーム合わせて13本塁打と球史に残る乱打戦に(現在もプロ野球最多タイ記録)。巨人先発の川崎徳次投手は8本塁打を浴び、13失点しながらも、自らのバットで3本塁打、9打点と応酬。結局、15対13で巨人が勝ち、完投した川崎が勝利投手に。被本塁打8は今もプロ野球記録で、失点13も勝利投手の失点数としては最多です。

 投手陣には気の毒な一戦でしたが、地方の野球ファンは大喜び。地元北國毎日新聞(現北國新聞)は「ホーマー實(じつ)に十三本」との見出しで、戦争中野球に飢えていた約2万人の観衆が打撃戦を楽しんだことを報じています。しかし、県側はさすがにこの規格ではと思ったのでしょう、再度球場の拡張に着手。翌1950年3月には両翼99.1メートル、中堅122メートルと、現在のプロ野球の本拠地と比較しても遜色のない広さになりました。このことが再び、球史を彩るゲームを演出します。

 1956年9月19日、国鉄対広島24回戦(ダブルヘッダーの第2試合)でした。国鉄のマウンドを任されたのは、地元金沢高校出身で入団5年目の宮地惟友投手。前年までの勝利数は11にとどまっていましたが、この年は開幕から好調で11勝を挙げて迎えた凱旋登板。「何とか地元でいいところを見せたい」と闘志を燃やしました。

 初回、先頭打者にピッチャー返しを打たれますが、打球はスパイクに当たり二ゴロ。5回にはライナーが宮地のグラブを強襲しますが、上手く弾いて遊直に。気が付くと9回二死まで一人の走者も出さず、打席には27人目の打者となる門前真佐人。「唯一緊張した」というこの場面、79球目となるシュートで右飛に打ち取ると、4000人の地元ファンから割れんばかりの拍手が送られました。プロ野球史上3人目となる完全試合達成。「故郷で達成したことが何よりの誇りです」。77歳の喜寿を迎えた2009年、地元新聞社のインタビューで胸を張っています。

 この時代、国鉄の本拠地は後楽園でした。両翼78メートルで簡単に本塁打が飛び出す投手受難の球場だっただけに、両翼100メートル近い兼六園でのピッチングが、精神的にも優位に立てたことは想像に難くありません。打者を手玉に取ったわずか79球の投球数は、完全試合における最少投球数として残ります。

 野球場は施設の老朽化、周辺地域の宅地化により1973年11月に閉鎖。この間、1948年の初開催から26年連続でプロ野球を開催しました。地方球場の連続年開催としては県営富山の31年、札幌円山の27年に次ぐ記録で、北陸地方のプロ野球人気定着に貢献しました。跡地には1977年、石川厚生年金会館(現北陸電力会館 本多の森ホール)が建設されました。外野スタンドの膨らみをそのまま活かした扇形の建物が、かつての野球場の雰囲気を伝えています。

 ところで、プロ野球の完全試合はこの試合を含め15回記録されています。中でも宮地が達成した1950年代後半からは“完全試合ラッシュ”で、55年~61年の7年間で6回も記録されています。しかし、近年は打高投低が顕著で、平成の30年間では1994年に巨人槙原寛己投手が達成した1回のみ。令和の球史に名を刻む偉業達成を、心待ちにしています。

【NPB公式記録員 山本勉】

参考文献・北國毎日新聞(1949年4月27日)
北國新聞(2009年9月19日)