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【球跡巡り・第69回】元祖甲子園のアイドル・太田幸司も投げた 佐世保市営球場

 大村湾に浮かぶ長崎空港から路線バスに乗り北進すること1時間30分。海上自衛隊や在日米海軍基地があり、海上防衛の重要な拠点となっている長崎県佐世保市に着きました。

 この街に本格的野球場が出来たのは終戦から4年後の1949年5月。市内光月町に収容人員4000人のスタンドを備えた「佐世保市民グラウンド」が完成しました。立地が市街地で、両翼88.4メートル、中堅106.7メートルとコンパクトな造りでしたが、原爆が投下され街の復興が優先された長崎市よりも早く建設された県内初の公設野球場でした。

 その建設には市民の野球熱の大きさが関与していました。戦争により焼け野原となった佐世保の街の復興を担った地元の建設会社・山領組の野球部が、1947年8月に東京都で行われた第2回全日本軟式野球選手権大会(現天皇杯)で全国制覇を達成したのです。ナインの帰還時には、国鉄佐世保駅は快挙を祝う大勢の市民で埋め尽くされ、駅前から市役所までパレードが行われました。これを機に野球愛好者や地元企業が球場建設の要望書を市に提出。2年の歳月を経て完成を見たのです。

 落成記念として市は1949年の暮れも押し迫った12月後半に巨人対大阪タイガース(現阪神)のオープン戦を誘致。19日には歓迎の前夜祭が行われ、巨人三原修、タイガース若林忠志の両監督をはじめ、千葉茂青田昇藤村富美男土井垣武らが出席。スター選手が披露するかくし芸に会場は盛り上がりました。

 翌20日の試合当日は残念なことに車軸を流す大雨に見舞われます。グラウンドは一面水浸しで最悪のコンディションでしたが、詰めかけたファンのためになんとか試合成立の5回まで強行。3対2でタイガースがコールド勝ちしましたが、翌日の新聞は「試合の興味を全く失うほどの雨だった」と伝えています。

 気象庁に残るデータでは、この日佐世保市には24.5ミリの雨が降り、最高気温は9.9℃。師走の冷たい雨が降る中での開催だったことがわかります。さすがにこれには地元長崎県出身の巨人山川喜作内野手も「こんな悪天候で野球をやるのは土台間違っている」と批判し、「平常と変わらぬ力を出していたが、思うようなプレーが出来ずファンに対して申し訳なかった」とコメントを残しています。プロ野球が始まって14年。選手の立場はまだまだ弱く、主催者ファーストだったことが伝わります。

 プロ野球公式戦は翌1950年6月2日の大洋対西日本戦をはじめとして、1978年までに3試合を開催。その間、1956年にはスタンドを拡張し収容人員1万人となり、「佐世保市営球場」と改称しました。その球場が開場以来最大のにぎわいを見せたのは1969年に行われた秋季国民体育大会の時でした。

 この年の夏、甲子園で行われた高校野球の決勝戦は三沢(青森)と松山商(愛媛)が対戦。延長18回0対0の引き分けとなり、翌日の再試合を松山商が制して頂点に立ちました。敗れはしましたが、一人で投げ抜いた三沢のエース・太田幸司投手は人気が沸騰。ロシア人を母に持つ青い目の美少年は、女性たちの憧れの的になりました。その両校の再戦が準々決勝で実現したのです。

 10月29日。球場は早朝から入場券を求める行列で騒然となりました。チケットはすぐに完売しスタンドは超満員。太田がベンチ近くのブルペンで投げ始めると、フェンス越しに女性ファンらが殺到しました。高野連の先生たちが懸命に警備に当たりましたが、その熱狂ぶりは甲子園さながらだったと伝わります。試合はまたしても接戦となり、太田が9回に勝ち越し点を許し三沢は1対2で惜敗。リベンジは成りませんでした。

 それでも太田の素質に惚れ惚れした人がいます。試合の球審を務めた浮田逸郎さんです。1950年西日本に入団し、1953年には大洋松竹で一軍マウンドも踏んだ元プロ野球選手でした。「とにかくフォームが素晴らしく、いい球を投げていた。さすが一線級の投手だと思いました」と生前に語っています。その年のドラフトで近鉄に入団した太田は2ケタ勝利を3度記録し、15年間で58勝を挙げました。

 太田自身も当時をよく覚えています。「江戸の敵は長崎で、じゃないが、甲子園の敵は長崎でとみんなで盛り上がりました。負けましたが、悔しさはあまりなかった。高校生活の野球がすべて終わったなあ、という満足感でしたね」。“元祖甲子園のアイドル”と言われた太田は、高校野球にピリオドを打った佐世保市営球場での試合を今も胸に刻んでいます。

 野球場は1979年に市内相浦の総合グラウンド内に新しく「佐世保野球場」が完成したこともあり1980年で閉場。1983年に解体されました。跡地は佐世保市体育文化館と公園になり、市民が集っています。

【NPB公式記録員 山本勉】

調査協力・佐世保市立図書館
参考文献・佐世保時事新聞(1949年12月20、21日)
YOMIURI ONLINE 「追憶の舞台 佐世保市営球場」