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【球跡巡り・第71回】プロ野球史上最大得点差からの逆転劇の舞台 大分県営野球場

 買い物客でにぎわうショッピングセンターの一角に、昔の野球場や地元に縁のある選手、監督の写真が飾られた展示コーナーがあります。「春日浦 BALL MEMORY」。2007年に開店し、地元住民の生活基盤となっているこの場所には、半世紀以上に渡り大分県の球史を刻んだ大分県営野球場(1979年に県立春日浦野球場と改称)がありました。

 隣接の庭球場を含めた運動場の建設を提案したのは、別府市で戦後の復興工事を担っていた星野組取締役の岡本忠夫氏でした。「土地さえあれば何とかする」と関係者に説いて、県から提供された旧大分師範学校跡地に私財も投じて1948年5月に完成させました。その建設は自社の星野組を中心に行いましたが、大分、別府、鶴崎などの野球愛好家や、近隣の学生たちも奉仕隊を作って献身的に労力を提供した手造りの野球場でした。

 オープン2カ月後の1948年7月29日に行われた南海対中日11回戦は、県下初のプロ野球公式戦でした。以降、1959年までに8試合を行いましたが、セ・リーグ初開催となった1951年5月19日の大洋対松竹3回戦は、今もプロ野球記録として残る「10点差逆転」の大熱戦となりました。

 奇跡を起こしたのは松竹でした。この日は先発の林茂、リリーフした井筒研一の両投手が6回までに計5本塁打を浴び、2対12と大きくリードされる展開でした。しかし、7、8回に主砲小鶴誠が2打席連続3ランを放つなどの猛攻で8得点。2点差まで詰め寄りました。そして9回表、2死二、三塁の場面で7回からマウンドに立っていた小林恒夫が、プロ初本塁打となる起死回生の3ランを放ち13対12と逆転。その裏は小林恒がピシャリと抑え、10点差からの大逆転勝利を収めました。

 当時の投手起用は先発完投が当たり前で、この日の大洋も8回までに16安打を浴び、10失点の高野裕良投手を9回のマウンドに送りましたが、それがアダとなっての敗戦でした。10点差逆転はプロ野球史上最大得点差からの逆転劇で、この試合を含めて4度しかありません。

 18年間ライオンズ一筋の現役生活を過ごした大田卓司さん(72)には津久見高校時代はもちろん、プロ入り後の思い出も残る球場です。「県大会は全てここでありましたから何度も試合をしました。当時、津久見駅から大分駅までは鈍行列車で1時間半。そこから球場までは路面電車で行ったのかなあ」と50余年前の記憶をたどり始めました。

「正面玄関を入ってベンチ裏に行くと小さなロッカーがありました。三塁側スタンドの裏にはお宮さん(春日神社)があったので、木々が生い茂っていましたね」と球場の情景が蘇ります。「レフト側には10段ほどのスタンドがありましたが、ライト側はフェンスだけで客席はありませんでした。あれはなんでだろう」と首をかしげました。完成直後の球場写真ではライト側にもスタンドがあったことが確認できます。しかし、両翼86.9メートル、中堅106.7メートルと狭小だったので、その後グラウンドが拡張されました。その際に敷地の関係もあり、ライト側スタンドはなくなったようです。

「レフト場外には2階建てのアパートが建っていました。そこまでホームランの打球を飛ばしたのは私と、中津工の大島(康徳=中日、日本ハム)の二人だけと聞いたことがあります。でもね、私がこの球場で打ったホームランはバックスクリーンへの1本だけのはずです」と苦笑いしました。同学年で互いに高校からプロ野球へ。大島さんは歴代22位タイの382本塁打をマーク、大田さんも171本塁打に1983年日本シリーズMVPと足跡を残しました。大島さんの本塁打の真偽は不明ですが、両選手が球界で名を成したからこそ真実のように伝わるエピソードに思えます。

「何と言っても、一番の思い出はプロ入り後のオープン戦です」と振り返るのは入団2年目、対巨人戦での出来事です。「練習時に外野で準備体操をしていたら、『大田く~ん』と、かん高い声で呼ばれました。見たら、長嶋(茂雄)さんですよ! とっさに直立不動で『はい、おはようございます』と返事をしましたが、緊張でその後は何を言われ、どんな会話をしたか全く覚えていません」。現役晩年には勝負強い打撃で“必殺仕事人”の異名も取った大田さんが、19歳の時に「あこがれだった」“ミスタープロ野球”から話しかけられたことを語る声は、野球少年のように弾んでいました。

 球場の閉鎖を知ったのは7、8年前でした。「帰省した際に車で近くを走っていたら、兄貴が『卓司、球場なくなったよ』って。『行ってみるか』と言われたけど、その時はいまさらと思ってね。でもこうやって話をしていると行っておけば、と残念に思います。今度帰省したら寄って来ますよ。それにしても寂しいですね…」。最後の言葉は、昭和、平成と大分県の野球界に関わった人たちの胸中のようにも思えます。

 駐車場の一角にはスコアボードを模したモニュメントも造られていました。球場跡地に商業施設を出店した企業の、球史へのリスペクトが永遠に続くことを願います。

【NPB公式記録員 山本勉】

調査協力・大田卓司さん
田北昌史さん
松永一成さん
トキハインダストリー