終戦から3カ月後の1945年11月24日にプロ野球東西対抗第2戦を開催。戦時、外野は材木置き場になっており、この時も試合中、それを運び出すため、外野を馬車が通った逸話がある。その6日前には全桐生ーセネタースの試合も開催しており、戦後のプロ野球の夜明けはこの地から始まった。開場は古く、桐生市体育協会会長を務めていた堀祐平氏が私財を投じ、1928年11月に完成。6年後の1934年10月には昭和天皇の行幸を仰ぎ、1936年10月に設備一切を市へ寄付する申し出をし、1937年4月から市有施設になった。甲子園に26回出場の桐生高や、社会人の都市対抗野球で準優勝した全桐生ら、地元の強豪チームも多くの試合を行った。