戦争中、零戦を製作していた中島飛行機の工場跡地に1950年に建設され、通称「武蔵野グリーンパーク球場」、正式名称は「東京スタディアム」。三鷹駅から球場正面まで鉄道も敷設され、「武蔵野競技場前」という駅もあった。両翼91mながら中堅は128m。パンフレットには収容人員7万人と記載された超ビッグスケールの球場だった。東京六大学の試合も開催され、プロでは国鉄スワローズが1951年に専用球場として使用した。強風が吹くと土埃が舞い度々試合が中断。土盛りの外野スタンドの砂埃にも悩まされた。プロ野球がフランチャイズ制を導入した1952年、国鉄は後楽園球場を本拠地としたので、プロ野球開催は1年だけだった。