• セントラル・リーグ
  • 阪神タイガース
  • 広島東洋カープ
  • 横浜DeNAベイスターズ
  • 読売ジャイアンツ
  • 東京ヤクルトスワローズ
  • 中日ドラゴンズ
  • パシフィック・リーグ
  • オリックス・バファローズ
  • 千葉ロッテマリーンズ
  • 福岡ソフトバンクホークス
  • 東北楽天ゴールデンイーグルス
  • 埼玉西武ライオンズ
  • 北海道日本ハムファイターズ
  • 侍ジャパン

日本野球機構オフィシャルサイト

ニュース

NPBニュース

【球跡巡り・第76回】西鉄の春季キャンプに開幕戦も行った 春日原球場

 福岡市の商業の中心地天神から電車で約10分。「西鉄春日原」駅周辺は閑静な住宅街が広がりますが、100年ほど前はマツタケが自生するような原野だったそうです。その一角にあった農業用の溜池を埋め立て、春日原球場が完成したのは1924年10月。福岡県内で初めて造られた野球場は、陸上競技場にテニスコート、ラグビー場も併設された総合運動場でした。

 1924年といえば甲子園球場が開場した年で、当時国内ではスタンドを完備した本格的野球場は10カ所ほどでした。しかも陸上競技場等を併設した総合運動場となると、同時期に愛媛県松山市道後に伊予鉄道会社(現伊予鉄グループ)が造った道後グラウンドとここの2カ所だけ。この地は日本における総合運動場の先駆けだったのです。

 地元福岡の球団として1950年からパ・リーグに加盟した西鉄クリッパース(翌51年に西日本と合併し西鉄ライオンズ)は、1月15日にここ春日原球場で始動。2月末まで春季キャンプを行いチームの土台を築きました。また1952年3月21日には近鉄との開幕戦も開催しています。

1953年に茨城県の水戸商業から入団の豊田泰光内野手はここでの公式戦は1試合でしたが、若手の合同練習の地としてプロの第一歩を踏み出しました。その縁もあり、晩年までこの球場のことを記憶に留め「バックネットと本塁の間が広く、暴投や捕逸はえらい目にあった。ボールが転々とする間に一塁にいた走者が三塁に進んでしまう」と振り返っています。

 ファウルグラウンドの広さとは対照的に、左右両翼までは85.4メートル、中堅は106.7メートルと小さな作りでした。プロ野球の一軍戦は28試合行われ63本塁打。1試合平均2本強の本塁打が出ました。最後の公式戦となった1953年10月11日の西鉄対東急戦では、両チームで6本の本塁打が乱舞。前出の豊田選手も7回裏に米川泰夫投手から、この球場で唯一のアーチを中堅左へ描いています。

 本塁打が出やすい球場の恩恵を受け、西鉄の新人選手二人が球史に名を刻みました。1950年10月1日の近鉄戦では伴勇資捕手が、続く10月22日の南海戦では新留国良外野手が満塁本塁打。パ・リーグの「新人の満塁本塁打」は2023年の茶野篤政外野手(オリックス)まで29人マークしていますが、同一球場で2試合連続して記録されたのはこの1回しかありません。

 野球場は今から70年前の1954年に閉鎖されましたが、地元春日原地区の自治会長を務めた鶴田幸生さん(89)は「駅を降りると長い桜並木が続き、その途中に春日原球場がありました。隣接の龍神池にはボート乗り場もあり多くの人で賑わっていました」と当時の様子を記憶に留めています。「中学生の時には高校野球やプロ野球を観戦しました。野球場といえば春日原でしたから、将来は自分もここでプレーをして、もしかしたら甲子園へ行けるかもしれないと心を躍らせていました」。

 進学した地元の高校で野球部に入部。「1年生の時にここで初ヒットを放ちましたが、3年生の春の県大会決勝戦では、守備で相手の決勝点につながる落球をしました。全校生徒が応援する前での痛恨のエラーでした」。嬉しい思い出も、苦い思い出も刻んだ野球場。「野球漬けだった私にとって春日原球場は青春そのものです」と懐かしみました。

 跡地は宅地として開発され326区画に分けて分譲されました。当時の面影を探し現地調査をしている途中、ふらり立ち寄った飲食店の店主が「近くに西鉄ライオンズの選手が住んでいたマンションがありますよ」と教えてくれました。優に築50年は経過していると思われるその建物へ行き、すれ違った初老の女性に声をかけると、何とそこの大家さんでした。

 「亡くなった兄が国体にも出場したスポーツマンで、交友関係が広かったのです。大相撲の力士や芸能人、時には芸者さんも呼んで地下の部屋で宴会をやっていました。西鉄の選手の方も二人住んでいましたよ。一人は○○投手。もう一人は内野手の△△さん」。ともに1960年代後半、西鉄の主力選手として活躍し、当時を知るプロ野球ファンなら何度もその名を耳にしたことのある有名選手でした。

 驚かされたのは、そのマンションが建っている場所です。現在の航空写真と野球場があった時代の地図を見比べると、球場の正面スタンドがあった辺りなのです。偶然とはいえ、西鉄ライオンズの礎を作った場所に、10数年の時を経て主力選手が居を構えていたのです。

 総合運動場跡地の一角には「春日原停留所運動場道」と記された石碑が建ち、昭和初期の付近の写真も見ることができます。開場からちょうど100年。日本における総合運動場の先駆けとなった地は、永遠に後世に伝えたい場所です。

【NPB公式記録員 山本勉】

調査協力・福岡県春日市
松永一成
参考文献・市報「かすが」令和4年9月1日号
「追憶の舞台」読売新聞(2011年11月19日)
写真提供・松永一成