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【球跡巡り・第83回】外野フェンスは唐津城の城壁だった 唐津舞鶴球場

 唐に渡る港(津)として栄えた歴史を持つ佐賀県唐津市。唐津湾に突き出た要害の地にある唐津城は、別名舞鶴城と呼ばれるほどに優美な姿を誇ります。その城の麓にある中高一貫校の早稲田佐賀中学校・高等学校(以下、早稲田佐賀)のグラウンドは、かつて「唐津舞鶴球場」として内野スタンドを備えた野球場でもありました。

 校地は唐津城の二の丸だった場所で、2010年春に早稲田佐賀が開校するまでは県立第三中学校(1899年創立)を源流として、旧制唐津中学、唐津高校、唐津東高校と校名変更した学校が100年以上の歴史を刻みました。

 南海、近鉄で俊足、強肩の内野手として活躍し、一リーグ時代の1949年から52年まで(50~52年はパ・リーグ)4年連続盗塁王に輝いた木塚忠助内野手は、旧制唐津中学の出身です。在学時からその俊足ぶりは群を抜いていたようで、同級生だった田口清さんが「創立100周年記念誌」に思い出を書き留めています。

「中学4年生だった1940年10月に行われた運動会の時のことです。フィナーレは4人がバトンを繋ぐ学年対抗800メートルリレーでした。各学年とも選抜された走者だけあってカモシカのように疾走し、最上級生の5年生、4年生、3年生の順で第4走者に継走されました。このまま終われば毎年の運動会通りでハッピーエンドでしたが…幸か不幸か、木塚君がゴール間際で5年生のアンカーを抜いてしまったのです。順位は4年生が1位、5年生は2位。さあ、大変! 5年生は面目丸つぶれです。早速5年生の応援リーダーから木塚君は屋上に呼び出され、可愛がられた(?)のは言うまでもありません」。

 理屈が通らない時代ならではのエピソードです。

 校庭の拡張工事を行い、土盛りの内野スタンドが完備され「野球場」となったのは唐津高校時代の1950年10月。レフト後方にはテニスコートがあり外野に常設フェンスは施工できず、野球開催時に臨時の囲いを設けました。前出の記念誌には「市のグラウンドという意味合いもあった」とあり、市営球場の役割も果たしました。

 これまでのコラムで紹介しましたが、長崎商業や尾道西高校、福井市立高校など学校のグラウンドでプロ野球を開催していますが、あくまでもそこは「校庭」でした。しかし、今回の唐津舞鶴球場と第70回で紹介した佐賀市民グラウンドは「校庭に造られた市営球場」です。今から約75年前。佐賀県には「校庭」と「市営球場」の二面性を持つグラウンドが存在したのです。

 校庭を兼ねた市営球場でプロ野球が開催されたのは1951年でした。8月9日に長崎から始まった毎日対阪急の九州シリーズ。11日の佐世保に続き、12日に第3戦がここ唐津舞鶴で行われました。前出の木塚選手が在籍する南海は来校しませんでしたが、唐津市で初の公式戦とありスタンドは満員となる8000人の観客で埋まりました。

 いつもは校庭として利用されるグラウンドが、この日は野球場としての顔を見せます。本塁から290フィート(88.4メートル)の距離に置かれた左翼の仮設フェンスは、緩やかな膨らみを保ちながら中堅を経て右中間へと延びていました。ところがフェンスは途中で終わります。なんと、そこから右翼のファウルグラウンドまで約40メートルは、かつて唐津城の一角を構成していた野面積みの城壁が外野フェンスの代役を果たしました。

 約4メートルの高さを誇る石垣は二の丸御殿の場所に築かれたものでした。唐津城の学芸員によると、最初に造られたのは「慶長7年から13年(1602年~08年)の唐津新城築城期」のようです。ただし、「現在に至るまでに何度か改修工事がなされているため、藩政期初期の石垣が残っているとは限りません」と現存の石垣の正確な構築年は不明ですが、長ければ約350年の歴史を有する石垣が外野フェンスになったのです。

 毎日が荒巻淳(大分経専)、阪急が原田孝一(熊本商)と、ともに九州出身の先発投手で始まった試合は、1対1と同点の6回表に阪急が打者一巡の攻撃で5得点。阪急は先発の原田が4回1失点で降板しますが、リリーフの宮澤基一郎天保義夫の両投手が毎日打線を抑え6対3で勝ちました。両チームで18安打も本塁打は0。残念ながら城壁超えのロマンあふれる一発は出ませんでしたが、唐津城の麓で行われた一戦は、かつての城壁を外野フェンスとして行われた唯一のプロ野球公式戦でした。

 その後20年以上野球場としての役割も果たしたグラウンドでしたが、施設の老朽化もあり1974年3月からスタンドの撤去、バックネットの取り外しが行われました。前後して、防球ネットが取り付けられ、校庭を取り囲むように外柵も設置されました。グラウンドはいまも同じ場所にあり、早稲田佐賀高校硬式野球部の練習場になっています。プロ野球開催時に外野フェンスの代役を果たした石垣も、ライト後方に73年前と変わらぬ姿で現存しています。

【NPB公式記録員 山本勉】

調査協力・唐津城
早稲田佐賀中学校・高等学校
唐津市近代図書館
松永一成さん
参考文献・「鶴城 創立100周年記念誌」唐津東高等学校発行
「鶴城 創立120周年記念誌」唐津東高等学校・唐津東中学校発行