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【記録員コラム】スコアブックを語る~温故知新~

 早慶戦といえば野球ファンなら誰もが東京六大学野球を思い浮かべるだろう。しかしスコアの記入法にも「早慶戦」があることを知っている野球ファンは少ないのではないだろうか。

 この度、NPB公式サイトで『NPB式スコアブックの記入方法』というコーナーが新設された。その冒頭でも触れているようにスコアの記入法には「早稲田式」と「慶応式」の2種類があり、早稲田式とは一般に普及していて皆さんが普段目にしているスコアのことである。そして、私たちNPBの公式記録員はそれとは違う記入法、つまり慶応式で書いていてそれを「NPB式スコア」と呼んでいる。

 何故「早稲田式」、「慶応式」と呼ばれているのか、理由としてはそれぞれの大学で考案されたことからだと思うが、それが時代と共に受け継がれていく中で早稲田式は一般に普及していき、慶応式はプロ野球の記録法として生き続けてきた。ただし、いつ頃から「早稲田式」、「慶応式」と呼んでいるのかは不明である。今回はNPB式スコア、すなわち「慶応式」の記入法の由来を紐解いてみた。

 時代を遡ること一世紀以上、1910年(明治43年)11月発行の規則書「現行野球規則」の中に附録として『野球試合記録法』が紹介されている。考案したのは当時慶応大の学生で野球部のスコアラーであった直木松太郎氏(1891~1947年)であり、この記録法が慶応式スコアの原点となっている。

 直木氏は、米国の野球規則を翻訳しこの「現行野球規則」を編纂。その後東京六大学野球の規則委員になるなど、野球ルールの基礎作りに功績をあげたとして1970年に野球殿堂入りした人物である。

 「現行野球規則」が出版された1910年とは、最初の早慶戦(1903~1906年)が行われた後であるものの、高校野球の全国大会(1915年~)も東京六大学野球(1925年~)も都市対抗野球(1927年~)も、もちろんプロ野球(1936年~)もまだ始まっていない、そもそもリーグ戦のようなものがほとんどない時代であった。そんな時代に直木氏は野球試合記録法の諸言(前書き)の中で、それまでの我が国での記録方法を『不完全なもの』、『余りに粗略幼稚』(原文ママ)と批判し、理想とする記録法については『何人も知る如く一定の略記法に依り簡単明瞭且迅速に試合の経過を組織的に記録する』(原文ママ)と述べている。そして米国の記録法を基にして自身の経験を参酌したうえでこの野球試合記録法を考案したとしている。

 直木氏はさらに、試合記録の目的として『試合状況を永久に傳ふる事』、『各組各選手の成績算出の基礎を作る事』(原文ママ)の二つを挙げ、完全なスコアが得られなければ完全な成績表は出来ないと、将来の野球界の発展を見据え高い志を持ってスコアブックの重要性を説いていた。

 直木氏が考案した慶応式の記録法は、やがて山内以九士(やまのうち・いくじ)氏(1902~1972年)に受け継がれることとなる。山内氏は直木氏が慶大野球部の指導者であった頃(1920~1924年)の野球部員で、在学中から直木氏に師事し野球ルールの翻訳や研究に没頭、同時にスコア記録法についても継承していた。

 1936年(昭和11年)3月に出版された「最新野球規則」は、師である直木氏と同じように米国の野球規則を翻訳し、山内氏が執筆したものである。その巻末には直木氏から受け継いだ慶応式の記録法にいくつかの修正を加えた野球試合記録法を掲載している。その中で山内氏はスコアラー(記録員)の任務について軽視すべきでないとし次のように記した。『試合中における選手の一挙一動を観察し、規則に徴して安打または失策の決定に対する判断をなさねばならない点、或る意味において選手の成績に対する審判である。(中略)即断を誤ったなら選手の迷惑は一時に止まらず永く汚点を紙上に残すに至るのであるから、少なくとも野球技に精通し公平に判断する人でなくてはならない』(原文ママ)

 そして、同年12月にはこの記録法に適した記録帳として『ヤマウチ式野球試合記録帳』を発行したのである。

 1936年といえばまさにプロ野球がスタートした年であった。

 当時の野球規則は山内氏編の「最新野球規則」を基にして施行されている。一方、試合の記録を残すにあたってどのような議論があったかは定かではないが、直木氏から山内氏に受け継がれた慶応式の記録法がより正確なスコアとなることは言うまでもなく、公式記録員のスコア記録法としてそれが採用されたのは自然の流れであったのであろう。

 山内氏は、その後1942年に公式記録員となり、1952~1962年はパ・リーグの記録部長も務めている。在任中は一リーグ(1936~1949年)のスコアを全て「ヤマウチ式」に清書して保存。「レディレコナー」(打率早見表)を考案するなど記録分野の発展に尽力した。さらには野球規則委員会委員長として規則改正にあたるなど、「規則・記録の大家」として1985年に野球殿堂入りしている。

 直木氏が考案し山内氏が改良した記録法は、80年の時を経た現在に至っても変わることなく「NPB式スコア」として継承されている。私たちがプロ野球草創期のスコアブックを開いたとき、当時の試合内容が手に取るように理解できるのは昔も今も変わらないスコアの記録法であると同時に、それを大切に受け継いできた先人たちの努力の賜物である。

 そして今、私たち記録員は、将来のプロ野球のさらなる発展を願いつつこの「NPB式スコアブックの記入方法」を今と変わらず未来へ繋いでいく役割も担っている。

【NPB公式記録員 山川誠二】