【コラム】長嶋茂雄さんが現役時代に残した伝説を紐解く「国民的スーパースター」のすごさとは
今シーズンから「長嶋茂雄賞」がNPBによって新たに創設された。昨年6月に天国に旅立った長嶋茂雄さんは多くのファンに愛され、感動を与え、プロ野球の発展に多大な貢献をした。その功績を称える目的で制定された賞で、公式戦やポストシーズンで走攻守において顕著な活躍を見せ、グラウンド上のプレーでファンを魅了し、日本プロ野球の文化的公共財としての価値向上に貢献した野手の中から選出される。
長嶋さんの現役時代をリアルタイムで見たことのない世代が増えている中で、あらためてどのような選手だったかを紐解くと、唯一無二の選手であったことが、記憶からも記録からも浮かび上がる。当時は東京六大学野球がプロ野球をしのぐ人気だった時代で、立教大に進学するとリーグ新記録の8本塁打をマーク。巨人に入団し、注目を集めたデビュー戦はあまりにも有名だ。1958年4月5日の国鉄戦(後楽園)。「三番・三塁」で先発出場すると、国鉄の左腕エース・金田正一に4打席連続空振り三振。全19球のうち、バットに触れたのはファウルの1球だけだった。だが、ほろ苦いスタートを成長の糧に、新人のシーズンで目を見張る成績を残す。29本塁打、92打点で2冠王に。打率.305、37盗塁はいずれもリーグ2位だった。9月19日の広島戦(後楽園)で一塁ベースを踏み忘れたため投ゴロになる「幻のホームラン事件」がなければ、1年目からトリプルスリーを達成していたという逸話も、長嶋さんらしいエピソードだ。
翌59年に「国民的スーパースター」の地位を不動にした伝説を作る。6月25日の阪神戦。昭和天皇ご夫妻を後楽園球場に迎えて行われた「天覧試合」だ。村山実からサヨナラ本塁打を放った一打が、日本列島に与えた衝撃は強烈だった。プロ野球の人気が一気に高まり、お茶の間でテレビが爆発的に普及したことで国民的娯楽に。長嶋さんは自身の野球人生でこの試合をベストゲームに挙げ、「あの天覧試合を契機に、私たち選手も、プロ野球に対する人々の関心が一層高まったという実感がありました」と振り返っている。
「記憶に残る男」の印象が強い長嶋さんだが、記録を見ても異次元の数字を残している。プロ2年目の59年から3年連続を含む6度の首位打者を獲得。2度の本塁打王、5度の打点王に輝いている。当時は連盟表彰でなかったが、新人のシーズンから6年連続、計10度の最多安打はともに日本記録だ。大舞台の強さも際立っていた。注目度が高ければ高いほど、光り輝く。シーズンMVPを5度受賞しているが、日本シリーズでもMVPを4度受賞。計68試合出場で打率.343、25本塁打を記録している。66打点、91安打、14二塁打、184塁打はいずれも日本記録で現在も破られていない。他球団のエースに強いことも魅力だった。最も多く本塁打を打った投手は村山で21本塁打。2位が金田で18本塁打。3位タイで江夏豊(阪神)、小山正明(阪神)、渋谷誠司(国鉄)の14本塁打だった。
「バッティングだけが野球じゃありませんよ。当らないときは、フィールディング、ランニングで見てもらいます」と語っていたように、長嶋さんの魅力は打撃だけではない。華麗な守備や、積極果敢に次の塁を狙う走塁。走攻守3拍子そろったプレースタイルで、一挙手一投足から目が離せない。1767刺殺、5325補殺、434併殺はいずれもNPBの三塁手の歴代最高記録だ。
巨人は長嶋さんと王貞治の「ON」を中心に65年から73年まで前人未到のV9を達成している。圧倒的な強さで絶大な人気を誇ったが、アンチ巨人の中でも「巨人は嫌いだけど長嶋は好き」という野球ファンが数多くいた。底抜けに明るい性格で「太陽」と称され、プロ野球を象徴する存在に。当時は全国の野球チームで長嶋さんの背番号3を着けたいと、子どもたちの間でユニフォームの取り合いになっていた。
リーグ10連覇を逃した74年限りで現役引退を決断。引退セレモニーで「我が巨人軍は永久に不滅です」と語ったセリフは、50年以上経った現在でも名スピーチとして語り継がれている。2度と現れない不滅のスーパースター。それが、長嶋茂雄さんだった。
【文責:週刊ベースボール】

