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【球跡巡り・第7回】フィギュアの聖地に刻まれた「フィールド・オブ・ドリームス」 大須球場

 大須観音で知られる名古屋市中区の大須地区は、古くから門前町として栄えて来ました。市営地下鉄鶴舞線・大須観音駅の近くに、伊藤みどりさんや浅田真央さんら世界的フィギュアスケート選手が巣立った名古屋スポーツセンター(大須スケートリンク)があります。かつてこの地には、個人で設営した大須球場がありました。

 戦災を受けた寺院から一帯の土地約四千坪を購入した高島三治氏(故人)が、焼け野原で草野球に興じる人々を見て、一念発起。終戦2年後の1947年12月に、両翼93メートル、中堅112.9メートルとプロ野球も開催できる規模の球場を造りました。「周りには、まだバラックや闇市なんかもあってね。そんな時期によく個人で野球場なんてものを造ったよね」。三治氏の長男で、今も大須に暮らす次郎さん(85)が70年前の情景に思いを巡らせます。

 「四千坪と言っても、その一角には二子山古墳(全長138メートル)があったし、寺院の鐘楼も焼け残っていて球場設計に制約があったのでしょう。両翼から中堅への膨らみが少なく、外野は狭かった。ホームランがたくさん出ましたよ」。次郎さんの言葉を裏付ける試合が、1950年3月16日の東急対西鉄戦。両チームで6本塁打が乱舞した試合は、21対14のビッグスコアで西鉄が勝利したが、両チーム合わせて35得点は今もプロ野球最多得点記録として残ります。翌1951年、10月5日の阪急対大映戦では、大映の四番・飯島滋弥が2本の満塁弾を含む3本塁打。この時、飯島が挙げたゲーム11打点もいまだ破られないプロ野球記録です。

 その「狭さ」に泣かされたのは、大須球場でプロの第一歩を踏み出した関根潤三さん(91)です。1950年に二リーグ分立で誕生した近鉄に入団した関根は、3月15日、開幕3戦目の大映戦の先発マウンドを任されます。5回まで1失点の好投も、6回表に2者連続本塁打を含む7安打を浴び、8失点KO。スコアカードを見ると、被弾はともに膨らみの少ない左中間に飛び込んでいます。「プロの洗礼を浴びました。立ち直るのに1年を要した、とても記憶に残る球場」と回想。投手で65勝、打者で1137安打を記録した元祖・二刀流の脳裏には、今も大須球場が焼き付いています。

 プロ野球使用球場といっても、開催は年10試合程度。経営は赤字でした。1948年に8試合を行なった地元球団の中日も、同年12月に中日スタヂアムが完成すると離れて行きます。1949年はプロ野球興行が1試合もなく、バイクレースやダンスパーティーまで開催して入場料を稼いだが、借金はかさむ一方。そんな折、パ・リーグの某球団から「準フランチャイズとして使用したい」との話しが舞い込みます。起死回生のチャンスを逃すまいと三治氏は、さらに借金をしてレフト側に外野席を新設(写真参照)。ネット裏の最良席がわずか5段にもかかわらず、完成した外野席は15段を超えており意気込みが伝わります。しかし、様々な事情から準フランチャイズの話しが実現することはありませんでした。

 結局、1952年限りで閉鎖が決定し、名古屋の真ん中に心地よい球音が響いたのはわずか5年間。日本版“フィールド・オブ・ドリームス”で刻まれたプロ野球史は30試合でした。跡地には地元財界の出資でスポーツセンターが建設され、戦災で離れていた寺院も戻り、活動を再開しました。江戸時代中期の1730年頃に設置され、戦火を免れ、球場建設時にも移転されなかった鐘楼が、スケート客でにぎわう街の一角で、静かに佇んでいました。

【NPB公式記録員 山本勉】

調査協力・高島次郎さん
本願寺名古屋別院
参考文献・中日スポーツ(2008年3月16日)
中日新聞(2013年9月21日 夕刊)
参考資料・「幻の大須球場~プロ野球史に刻まれたフィールド・オブ・ドリームス~」
テレビ愛知
写真提供・高島次郎さん
野球チケット博物館