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【球跡巡り・第94回】沢村栄治(巨人)、西村幸生(大阪タイガース)の追悼試合が行われた 三重交通山田球場

 伊勢神宮(内宮・外宮)の鳥居前町として全国から参拝客が訪れる三重県伊勢市。ここはプロ野球草創期に活躍し、ともに野球殿堂入りした沢村栄治(巨人)、西村幸生(大阪タイガース)と、不世出の名投手を生んだ街でもあります。(当時は宇治山田市で1955年1月1日から伊勢市)

 その宇治山田に初めて本格的な野球場が出来たのは1948年3月でした。伊勢市史によると建設したのは宇治山田野球連盟。西村投手が卒業した宇治山田中学校(旧制)の校舎跡地に両翼85.4メートル、中堅115.9メートルの山田球場を造りました。当初は同連盟が管理していましたが、50年春に地元の交通機関である三重交通株式会社が硬式野球部を結成したことから同社が経営権を獲得。野球部の練習場になり、三重交通山田球場と名称を変更しました。

 プロ野球公式戦は一リーグ時代の1948年から二リーグ分立直後の51年までの4年間に16試合を開催。初試合となった48年5月29日の中日対巨人7回戦では、史上初となる「1球敗戦」の珍しい記録が刻まれています。

 乱打戦となった試合は9回表を終わって巨人が13対12と1点をリード。その裏、巨人は中尾碩志投手が先頭打者に四球を与えると川崎徳次投手がマウンドへ。対する打者はここまで本塁打を含む3安打4打点と大当たりの杉山悟外野手でした。杉山は川崎の初球を振り抜くと打球は左翼スタンドへ飛び込む逆転サヨナラ2ランホームラン。決勝点となる14点目を献上した川崎は1球で黒星を付けられたのです。

 翌年3月30日には巨人対大阪タイガース(現阪神)のオープン戦が、ともに太平洋戦争で戦死した沢村、西村の追悼試合として行われました。巨人から川上哲治青田昇藤本英雄。タイガースからは藤村富美男別当薫土井垣武など、ともに主力選手が参加。試合前には記念写真を撮りましたが、中央には西村投手の実弟とその息子の隆明君(当時6歳)が写っています。その日から76年。傘寿を過ぎた西村隆明さん(82)を伊勢市に訪ねました。

 伊勢神宮・外宮の表参道の入口近くに創業110余年の老舗うなぎ料理屋「喜多や」があります。隆明さんはこの店の3代目として今も厨房に立ち、うなぎを焼いています。店内には西村投手を特集したテレビ番組のビデオが流れ、前述の写真も飾られています。「私が6歳の時ですからほとんど記憶にありません。後に写真を見たら私の前に川上さんがいてビックリ。こんなところに立たせてもらったんだと感激しました」と振り返ります。

 隆明さんは中学校で軟式野球に勤しみ、宇治山田高校では硬球を握り叔父と同じピッチャーを務めました。「山田球場には厳しい管理人がいて整備が行き届いていました。綺麗なグラウンドでしたよ。ノンプロの三重交通に高校のOBがたくさんいて、球場で合同練習をしてもらいました」と昔日の記憶をたどりました。

「地元では叔父の印象が強く、つらい思いもしました」と隆明さん。高校時代には偉大だった叔父の存在に押しつぶされそうにもなりました。それでも野球から離れることはなく、叔父の背中を追うかのように同じ大学(関西大)に進学。卒業後は社会人野球の辻和商事(京都市)でプレー。続くデュプロ印刷機(京都市)では6年間監督(投手兼任)も務めました。隆明さんの野球人生は、戦時という時代に翻弄され、無心で白球を追えなかった叔父の無念を晴らしたようにも映ります。

 その後、隆明さんは郷里に戻り母方の実家が営んでいたうなぎ屋を継ぎました。思いがけない知らせが届いたのは2014年。「伝統の巨人阪神戦80周年企画」として、市内では65年ぶりとなる巨人対阪神のオープン戦が倉田山野球場で開催されることになったのです。しかも、巨人は全選手が沢村投手の背番号で永久欠番の「14」を、阪神は全選手が西村投手の背番号「19」を着用するのです。「(オープン戦を)もう一度やってほしい気持ちは以前からありました。沢村さんと叔父…。巨人対阪神の球史は伊勢から始まったと思っていましたから」。クールな隆明さんの声のトーンが上がりました。

 迎えた3月10日。この日が改装オープンの球場には満員となる9000人近い観客が詰めかけました。試合前、隆明さんは沢村投手の長女・美緒さんと並んで始球式を行い、鮮やかな投球フォームを披露しました。「依頼された時は、こんなことがあるのか!と思いました」と嬉しそうに回想します。沢村と西村。二人が最後にプロ野球で対峙したのは1937年9月25日、西宮球場。それから80年近くの時を経て、名投手二人の縁者が同じマウンドに立ったのです。天国の二人もきっと笑顔で見守っていたことでしょう。その二人の胸像は一塁側スタンドの脇に並んで屹立(きつりつ)しています。

 野球場は1963年に倉田山公園に市営の新球場が完成したのを機に閉鎖、解体されました。跡地は市立総合病院を経て、いまは住宅地になっています。その一角には公園があり、入り口には「三重県立宇治山田中学校跡」の石碑が建っていますが、残念ながら山田球場だったという史実は残されていません。

【NPB公式記録員 山本勉】

参考文献・伊勢市史 第五巻 現代編(伊勢市編纂)
調査協力・西村隆明さん
うなぎ料理屋「喜多や」