【球跡巡り・第95回】観衆300人で行われたダブルヘッダー 千葉公園市営球場
千葉市のJR千葉駅から徒歩約10分の所にある千葉公園。戦時中は陸軍の鉄道連隊が置かれ演習用の作業場になっていました。そのため今でも公園内には練習用トンネルや橋脚が遺構として残ります。1946年に戦災復興都市計画が立案され、49年から公園整備が始まり同年10月に「千葉公園市営球場」が完成しました。
千葉市でのプロ野球は一リーグ時代には青葉町の県営千葉寺公園野球場で行われていました。ここは両翼フェンスまで79.3メートルと狭かったこともあり、市営球場が完成すると舞台を移行。1950年3月28日の巨人対広島戦を皮切りに、56年までの7年間で13試合を開催しました。
1952年の巨人対国鉄戦には超満員の2万人が詰めかけました。ところが最後の公式戦となった56年7月21日、大映主催の近鉄戦(12時15分開始のダブルヘッダー)の観衆はなんと2試合とも「300人」でした。開催は夏休み目前の土曜日でしたが、試合前の時点で8チーム中5位の近鉄と最下位大映の対戦には、千葉の野球ファンもさほど興味を示さなかったようです。
1956年の大映は東京都中央区に球団事務所を構え、本拠地は後楽園球場でした。ただし後楽園は巨人、国鉄、毎日との共用で、主催実績は巨人54、国鉄45、毎日38。大映は最少の34試合でした。興行の優先権は営業の観点からセ・リーグにあったようです。現に7月21、22日に行われた巨人対阪神戦では両日で8万7000人を集客しました。
後楽園が大映の専用球場なら週末にわざわざ地方開催を選択しなかったでしょう。しかし現実は21日に千葉公園で試合を行い、その足で銚子市へ移動。翌22日は銚子市営球場で同じく近鉄とダブルヘッダーの強行日程を消化しています。現在に通じるフランチャイズ制は1952年に始まりましたが、当初は一つの球場を複数球団で共用しており日程調整にも苦心したようです。
高校野球千葉県大会のメイン球場としても数々の名勝負を刻んでいます。ヤクルトの小川淳司GM(68)は習志野高校3年の1975年夏、甲子園大会で全5試合を完投して全国制覇を達成しました。小川さんはその前年、2年生の夏にここで県立銚子商業と戦った試合を記憶にとどめています。
1974年7月23日。Aシードの習志野と、ノーシードながらエースの土屋正勝投手(のちに中日、ロッテ)を中心に4季連続甲子園出場を目指す銚子商が対峙した一戦は、4回戦ながら事実上の決勝戦でした。スタンドは満員札止めとなる2万人の観衆で埋まります。「うちはレギュラーのうち7人が2年生で、3年生はショートとセンターの2人だけでした。3年生にエースもいたので“投げさせてもらっている”という気持ちでしたね」。背番号10を付けて立ったマウンドを謙虚に振り返ります。
4回まで両チーム無得点の試合は、5回表に小川さんがタイムリーを打たれ銚子商に2点の先制を許します。「リードされた後、味方の攻撃の時に三塁側のスタンド前でキャッチボールをしていると、3年生のお母さんたちが近づいて来て“頑張ってね、頑張ってね”と声援を送ってくれた光景が今でも忘れられません。球場の内野フェンスは低くて腰の高さぐらいまでしかなかったので、それがすごく近くに感じられました」。
上級生の父兄の声援も力に小川さんは6回以降を無失点に抑えました。しかし、そこまで3季連続で甲子園のマウンドを踏んでいる好投手土屋を習志野打線は捕らえられません。「土屋さんは凄いボールを投げていました。打てませんでしたね」。散発の4安打に抑えられ0対2で完封負けを喫しました。その後県大会を制した銚子商は、甲子園大会で土屋投手を中心に5試合中4試合完封勝ちと圧巻の戦いで全国制覇を達成しました。
「野球場は天台(千葉県営野球場)のほうが新しく、千葉公園は古かったですね。投手板の前にゴムが埋められていなかったので、試合が進むと足場が掘れてスパイクどころか、くるぶしぐらいまで埋まるんですよ。それで、軸足のスパイクの歯を少しプレートに掛けて投げることを覚えました。3年生の夏に踏んだ甲子園のマウンドは(ゴムが埋められていたので)投げやすかったなあ」と回想します。前述のように小川さんを擁した習志野は1975年夏の甲子園大会を制し、前年の銚子商に続き千葉県に「深紅の大優勝旗」をもたらしました。
二人の怪腕球児が投げ合った舞台の終焉は2020年春でした。球場は過去に大規模修繕をしていなかったこともあり施設の老朽化が進行。更衣室がないなどの問題も抱えていました。千葉市は野球場の閉鎖と撤去を決定し、跡地は芝生広場として整備。24年4月に「千葉公園 芝庭」としてリニューアルオープンし、多くの市民が集う憩いの場所になっています。
【NPB公式記録員 山本勉】
| 調査協力・ | 小川淳司さん |
|---|


