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【球跡巡り・第8回】完全試合男・藤本英雄(巨人)悲願の200勝達成 和歌山県営球場

 大阪湾に浮かぶ海上空港の関西国際空港を出発したリムジンバスは、大阪府南部の山間部を抜け、約40分で和歌山県の県庁所在地である和歌山市に到着しました。水戸、尾張と並ぶ徳川御三家の一つ、紀州徳川家の城下町として栄えた街には、今も中心部のこんもりと緑茂る虎伏山(とらふすやま)に白亜の天守閣がそびえます。紀州で初めてプロ野球の球音が響いた和歌山県営球場は、その和歌山城から徒歩圏内にありました。

 県内には終戦後も本格的な野球場がなく、高校野球の予選は和歌山中学(現桐蔭高校)などのグラウンドで行われていました。待望の野球場完成は1952年、春。杮落としとして行われた4月13日の松竹対中日戦には、松竹に地元海南中学(現海南高校)出身の平野謙二内野手が在籍することもあり、満員の1万7000人の観客が詰め掛けました。

 プロ野球開催は1955年までのわずか4年間で18試合(セ13、パ5)。最後のゲームとなった1955年10月11日、巨人対広島戦のダブルヘッダー第2試合では、巨人の藤本英雄投手が史上6人目の通算200勝を達成しました。1950年にプロ野球史上初の完全試合を達成した藤本は、53年までに198勝を挙げ大台到達は確実と見られていました。しかし、翌54年は肩を痛めわずか1勝。55年も開幕から出場機会はなく、登板ゼロのままこの日を迎えていました。

 第1試合はリーグ最多勝が射程圏の大友工が、1失点完投で30勝目を挙げます。続く第2試合の先発は入団2年目の堀内庄。プロ入り初勝利を目指す20歳の右腕は、4回表まで広島打線をノーヒットに抑えます。その裏、巨人は打線が繋がり7点を挙げ7対0とリード。あと1イニング投げれば堀内が勝利投手の権利を得る5回表でした。巨人の水原円裕(茂から改名)監督が、球審の有津佳奈馬に「ピッチャー・藤本」を告げたのです。

 この場面をネット裏の招待席で父親と一緒に見ていたのが、前和歌山市長の大橋建一さん(71)です。「水原監督はバックネット越しに公式記録員に何かを相談してから、球審に交代を告げましたね」。当時8歳だった大橋少年が、勝利投手を決める規則を知る由もありませんが、水原監督は公式記録員に藤本が5回から登板すれば勝ち投手になることを確認してから交代を告げたのでした。マウンドに立った藤本は往年の球威こそありませんでしたが、味方の好守にも助けられ5イニングを被安打1、無失点の好投。巨人が9対0で勝利を収め念願の200勝を達成しました。藤本はこの登板を最後に現役引退しますが、粋な花道には名将・水原監督の親心がありました。

 黒潮がもたらす温暖な気候もあり、1956年にはパ・リーグの高橋ユニオンズが春季キャンプを張りました。JR和歌山駅から近い立地の良さもありましたが、県が国体招致をにらんで市内南部に陸上競技場や野球場などを集めた「紀三井寺運動公園」を造ることになり、1963年限りで廃止されました。跡地には県立体育館が建てられ、今もスポーツに興ずる人々でにぎわっています。

【NPB公式記録員 山本勉】

参考文献・「あがらの和歌山 歴史ってほんまにおもしゃいで」NPO紀州文化の会

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