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【球跡巡り・第9回】水原VS三原 宿命のライバルが対峙した北の大地 苫小牧市営球場

 樽前山のふもと、太平洋の潮風香る勇払平野に拓けた北海道苫小牧市。アイスホッケーやスピードスケートなどウインタースポーツの盛んな土地ですが、野球との関わりも深く、大正時代の1924年に硬式野球クラブ「オーロラ」が結成されています。

 市営球場完成は1949年6月。1910年に操業を開始し、苫小牧を製紙の街に発展させた王子製紙苫小牧工場の社有地跡に造られたことからも、「王子製紙の後押しはかなりのものがあった」と地元新聞は伝えています。その球場が最大の盛り上がりを見せたのは1960年。王子製紙が操業50周年記念事業として、巨人対大洋のセ・リーグ公式戦を興行しました。当時、自治体の周年事業としての招致はありましたが、一民間企業のプロ野球開催は極めて希少。その熱は、当日の入場券からも伝わって来ます。(写真参考)

 監督は巨人が水原茂、大洋が三原脩。大学時代からしのぎを削った宿命のライバル対決です。加えて長嶋茂雄、王貞治らスター選手も来場。ところが、王子製紙の従業員とその家族1万人が無料招待される関係で、販売チケットはわずか3100枚でした。プラチナチケットを求め、発売開始日には早朝2時から窓口にファンが並び、発売開始の午前10時には2000人が列を成したそうです。球場側もバックネット、選手名を掲示できるスコアボードを新調、仮設スタンドも3000席設置し舞台を整えました。

 迎えた6月15日。開門が8時にもかかわらず、夜明け前から野球ファンが詰め掛けます。チケット争奪戦に敗れた人を目当てに、東京から32人のダフ屋も来道したそうです。苫小牧で7年ぶりのプロ野球、初の巨人戦開催は街を野球一色に染めました。14時1分に始まった試合は、3回表大洋が2点を先制すると、その裏巨人も王が2点タイムリー二塁打を放ち同点に。均衡が破れたのは7回裏でした。巨人先発の堀本律雄投手が、大洋鈴木隆投手からバックスクリーン直撃の本塁打を放ち、勝ち越し。結局この一打が決勝点となり、3対2で巨人が勝利を収めました。ファンにとっては濃密な1時間49分の宴でした。

 この試合の球審を務めたのは入局6年目、当時28歳の富澤宏哉審判員です。60年近くの歳月が流れ87歳になった富澤氏に、始球式の写真が残っていたことを伝えると、「覚えているよ。苫小牧はこの1回しか行っていないから」と間髪を入れずの返答。続けて「ホームベース上でクロスプレイがあってね。ジャッジを下した私の位置が、ネット裏に陣取ったカメラマンの撮影の邪魔になったようで“富澤さんのお尻しか写っていなかった”と言われましたよ」。若き日の記憶を、つい先日の出来事のように描写しました。富澤氏の公式戦出場試合数3775は歴代2位。1959年の天覧試合にも出場した審判界のレジェンドの脳裏には、今も北の大地での一戦が鮮明に刻まれています。

 地元の高校野球部の練習場としても頻繁に使われました。中でも校舎が隣接していた苫小牧工業にとっては、ホームグラウンドのようなもの。同校で野球部監督を務め、甲子園にも出場した金子満夫さん(80)は「いい球場でしたよ。スタンドは今の球場(緑ヶ丘)より立派だったんじゃないかな」。1万人を超す収容力を誇った球場を懐かしみます。その使命を終えたのは1972年でした。市内清水町に市営球場(オーロラ球場=2003年閉場)が新設されたことで閉鎖。跡地には総合体育館が建設され、スポーツコミュニティーの場として市民に親しまれています。

【NPB公式記録員 山本勉】

調査協力・苫小牧市美術博物館
参考文献・苫小牧民報(1960年6月15、16日)
写真提供・苫小牧市美術博物館
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