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【球跡巡り・第13回】日本初 外国人名を冠にした野球場 大三沢リッドルスタジアム

 「ゴーー」。夜のとばりが下りた街に突如戦闘機の爆音が轟き、夜空を見上げました。航空自衛隊と米軍が共同利用する三沢基地を有する青森県三沢市(1958年8月31日までは大三沢町)。後日、市のホームページで確認すると、この日は航空自衛隊による夜間飛行訓練が行われていました。

 戦時中の三沢海軍飛行隊の飛行場が米軍に接収されたのは終戦直後の1945年9月。豊かな自然に恵まれ、馬産業や漁業で栄えていたのどかな田舎街は米軍人やその家族が暮らし始め、異国情緒漂う国際都市へ変貌して行きます。街中の広場では米軍同士や、米軍対地元建設会社の野球対抗戦が盛んに行われるようになりました。しかし、野球熱の高まりにもかかわらず、大三沢町には野球場がありませんでした。

 それを見かねて、当時米軍基地の維持管理司令官を務めていたリッドル(LIDDLE)中佐が、米軍従事者の厚生施設として球場建設を命令。米軍が駐留して4年目の1949年、6、7段の木製スタンドを備えた野球場が町内桜町に完成し、中佐の名前から「大三沢リッドルスタジアム」と命名されました。外国人名を冠にしたプロ野球開催球場では、旭川市のスタルヒン球場(1982年9月23日に旭川市営球場から改称)が有名ですが、それよりも時代をさかのぼること30年以上。本州最北の青森県に米軍中佐の名前から命名された球場があったのです。

 その大三沢に最初で最後となるプロ野球がやって来たのは二リーグ分立の1950年。9月27日に巨人、西日本、中日、広島のセ・リーグ4球団が集結し、変則ダブルヘッダーを行い5000人の観衆が詰め掛けました。巨人対西日本の試合では、巨人の四番・川上哲治選手が2試合を通じて唯一の本塁打を右中間スタンドへ叩き込み、ファンを喜ばせました。ちなみにこの試合は「リッドル中佐プレゼント」と銘打たれての興行で、当時から米軍が地元住民との融和に力を注いでいたことが伺えます。

 三沢市の体育協会会長を8年間務めた豊川昭一さん(故人)は2005年に開かれた「三沢市体育協会50周年記念座談会」で、「球場の近くにリッドルスタジアムのクラブハウスがあり、建物の半分に私が住んでいたんです。プロ野球を開催した時、巨人の監督、コーチ、選手がクラブハウスを休憩所にしましたが、首脳陣には私の家の部屋を提供しました。帰り際に、世話になったお礼にとサインボールをかなり頂きました」と回想しています。この年、巨人監督はキャリア1年目の水原茂(選手兼任)。その後、東映、中日と3チームで通算21シーズン指揮を執り、歴代4位の1586勝をマークすることになる名将との触れあいは、生涯忘れられない思い出として刻まれました。

 三沢と言えば、1969年夏の全国高校野球選手権大会で三沢高校野球部の準優勝も印象に残ります。全国区のヒーローとなった太田幸司投手(後に近鉄、巨人、阪神)ら、選手のほとんどは三沢市内出身でしたが、彼らの成長の源にもなった米軍との関係を見逃すことはできません。「太田が小学生の頃に米軍主催のリトルリーグの大会があって、その練習で週に数回米軍基地内に連れて行って硬球を握らせました。その経験が後々、いい結果を生んだのだと思います」。前掲の座談会で、チームの世話役を務めた気仙軍司さん(故人)が恵まれた野球環境を振り返っています。

 敗戦により米軍との共存を余儀なくされた街にとって、野球は貴重な潤滑油となりました。米軍人や町民たちの歓声がこだましたリッドルスタジアムでしたが、街の中心部にあったこともあり都市計画により1960年ごろに閉鎖。跡地には三沢市公会堂が建てられました。今では、その地に日本初となる外国人名を冠にした野球場が存在したことを知る人は少なくなりました。日本中を熱くした三沢高校野球部の快進撃から、この夏で50年が経ちます。

【NPB公式記録員 山本勉】

調査協力・三沢市教育委員会
三沢市立図書館
参考文献・「三沢市体育協会創立50周年記念誌・蒼天」三沢市体育協会