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【球跡巡り・第90回】桜の名所弘前城下で飛び交った白球 弘前市営球場

 津軽地方の経済と文化をけん引する青森県弘前市。市街中心部にある弘前城は日本有数の桜の名所として知られていますが、県内初のプロ野球公認球場が造られたのはそのお城がある弘前公園の一角でした。

 戦時中は軍事施設の火薬庫だった跡地に弘前野球協会が主体となり1948年11月に着工。市営球場なので建設費の大部分は弘前市の負担でしたが、戦後の混乱期で市の財政はひっ迫しており財源確保は容易ではありませんでした。総工費280万円のうち野球協会からの寄附金が50万円。なんとか国からの補助金等も得て「弘前市営球場」は1949年7月に竣工しました。

 プロ野球公式戦は1950年代に6試合開催しています。その招へいに尽力したのも野球協会でした。市内では1924年完成の南塘グラウンドでオープン戦を開催していましたが、公式戦は県内でも初でした。ところが初回と2回目は雨にたたられて中止に。雨の中でオープン戦として試合を強行しましたが、お客の入りは悪く赤字でした。

“3度目の正直”は1950年8月1日。パ・リーグの大映と毎日が北海道遠征の帰路に来弘しました。リーグ初年度のペナントを圧倒的な強さで制する毎日からは呉昌征苅田久徳西本幸雄別当薫若林忠志と、後に野球殿堂入りする5人が出場する豪華メンバー。試合は5本塁打を放った毎日打線が18対5で圧勝しました。「天気に恵まれたため、五、六千人のファンが詰めかけ大もうけ。前回の借金はもちろん、出資者に十割配当したほか、温泉一泊旅行もできたという“繁盛”ぶりだった」と地元の陸奥新報は伝えています。

 野球場があった場所は公園の追手門を入ってすぐのところでした。外野フェンスの外にある歩道は弘前城の本丸へ向かう道になっていて、桜が咲き誇る時期に開催される「弘前さくらまつり」の期間は多くの人が行き交います。1950年代の半ばには、その催しが行われるのと時を同じくして、地元弘前高校と大館鳳鳴高校の練習試合が行われていました。

 当時野球部員で、後に弘前高校野球部監督として1971年のセンバツ大会に甲子園出場を果たした水木厚美さん(85)は「試合開催にあたっては自分たちで看板を手作りして入場料収入を得ていました。まつりのついでに見に来る人も多くいて、立ち見が出るほどの観客でした」と当時を振り返ります。「市営球場はフェンスが低くて、ファウルボールがすぐに球場外に出ていました。三塁側にも歩道がありそこによく打球が飛んでいきましたよ。よくケガ人が出なかったなあ、と思います」。

 この球場には今も語り継がれる1日があります。1969年10月10日―。同年の夏、青森県代表として甲子園に出場した三沢高校は準優勝。決勝戦まで一人で投げ抜いた太田幸司投手は一躍全国区の人気者になりました。大会後にブラジル遠征に参加し9月下旬にようやく青森県に戻った太田が、10月下旬の長崎国体参加を前に前哨戦として弘前市の選抜チームと対戦することになり、市営球場に来場したのです。

「午前7時ごろから人波が続き、9時ごろには追手門まで長蛇の列。10時30分の開場とともに、スタンドはあっという間に小、中、高校生でふくれあがった。また、右翼場外の塀越しにも500人以上の人だかりができた」と東奥日報は伝えています。三沢ナインが球場入りする際には、ファンから守るため地元の野球部員がスクラムを組んでガード役になる奮闘ぶりでした。前出の水木さんも「あの時は三沢高校の選手たちが宿泊する旅館にもファンが殺到して警備が大変でした」と、当時の熱狂ぶりは今も脳裏に刻まれています。試合での太田は期待にたがわず、選抜チームを2安打に抑え13三振を奪う見事な投球。スタンドを埋めた満員の観客を唸らせました。

 ところで、弘前市営球場の完成は前述のように1949年でしたが、球場が造られた弘前公園では早くから野球が行われていたようです。青森県における野球伝来を調査、研究している弘前学院大学の井上裕太講師(博士(歴史学))は「1872年開校の私立学校東奥義塾は86年に野球部が創部された。その選手たちが弘前城本丸で夏の日に猛練習に励んだという文献が残されている」と論文で発表。野球場が完成する半世紀以上前から、お城の中で白球が飛び交っていたことを紹介しています。

 弘前市の野球の聖地としてにぎわいを見せていた市営球場ですが、球場としての機能は約30年で終焉を迎え1978年に閉鎖されました。その後は広場として整備され、緑の木々が生い茂っています。その後の野球場の機能は翌79年に完成した弘前市運動公園野球場(はるか夢球場)に引き継がれ、今年も8月26日にパ・リーグ公式戦の楽天対ソフトバンク戦が開催されます。

【NPB公式記録員 山本勉】

調査協力・水木厚美さん
井上裕太さん
参考文献・「明治期の青森県における野球伝来」(論文)井上裕太
「戦後混乱期の地方都市における野球場建設と市政運営」(論文)井上裕太
「サヨナラ弘前市営球場」陸奥新報(1978年9月18日~23日)
東奥日報(1969年10月11日)
写真提供・弘前市立博物館
井上裕太さん