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【球跡巡り・第21回】名審判が放った珠玉の一打 浅間町営岩村田球場

 日本有数の避暑地として知られる軽井沢から車で南西へ30分。長野県佐久市は浅間、蓼科、八ヶ岳などの美しい山々を一望できる景勝地です。その市街地にある岩村田小学校は開校140余年の伝統校で、現在校舎の改築工事が進められています。

 「残念ですね。もう数か月早く来校いただければ球場だったことを実感することができたのですが」と、出迎えてくれたのは岩村田小学校の金井教頭です。解体中の体育館をのぞくと、むき出しになったコンクリートの一部にスタンドの形跡が。「体育館のギャラリー席は、野球場のバックネット裏スタンドをそのまま活用して造られたそうです」。1972年に小学校が移転して来るまで、この場所には佐久市営(プロ野球開催時は浅間町営)の岩村田球場があったのです。

 校舎の一角に「浅間町営運動場」建設の記念碑があります。それによると1948年春に球場建設の構想が持ち上がり、6年の歳月を経て1954年6月に開場。内野は1万人収容のスタンドを完備。ただし、外野フェンスと球場外周を取り囲む塀との間は僅かで、外野スタンドは無いに等しい構造でした。

 プロ野球は1956、1957年の2年間行われパ・リーグ3試合、セ・リーグ2試合を開催。計5本塁打が記録されました。1957年10月7日に行われた大映対南海戦では、南海の野村克也捕手が満塁本塁打。パ・リーグ最多となる657本塁打を記録した野村は、生涯12本の満塁本塁打を放ちましたが、その2本目は岩村田球場で刻んだのです。

 試合では大映のルーキー・斎田忠利外野手もプロ入り2本目のアーチを放っています。斎田は法政大から入団した大型外野手。2年目に近鉄へ移籍し、6年間の現役生活で通算17本塁打を記録。プレーヤーよりも、引退後に転身したパ・リーグ審判員としての知名度が高いことでしょう。1978年、阪急・今井雄太郎がロッテ戦で達成した完全試合では球審を務め、1982年から1989年まで審判部長を歴任。日本シリーズには13回出場しました。

 その一打から60年以上の歳月が流れたが、覚えているのだろうか―。85歳になった斎田さんは都内で元気に暮らしていました。プロ初本塁打は記憶にないと言います。私が「2本目は長野県の…」と話を振った瞬間、「岩村田でしょ」と球場名が返ってきました。「南海戦ですよね。久しぶりに会心の当たりで、打球が場外まで飛んだから覚えていますよ。走者が二人いたから3ランで、1点差に追いついたはず」。驚かされました。まるで手元にスコアブックがあるかのように、克明に述懐されたのです。しかも、「真ん中高目の真っ直ぐ。そこしか打てなかったから」と謙遜しつつ、球種とコースまで記憶をよみがえらせました。

 試合は確かに斎田さんの一打で大映が8回に1点差に迫るも、直後の9回に野村が満塁本塁打を放ち南海が勝利しました。「野球場のことは記憶に残っていないけど、あの一打は忘れられないね」。23歳の秋。信州の澄んだ空に描いた放物線の感触は、85歳になった今日でもその手に残っているようでした。

 球場は開場から16年後の1970年に閉鎖。跡地は岩村田小学校として1972年11月に新校舎が完成しました。その際、校舎の設計を任された「レーモンド設計事務所」が粋な計らいをします。(同社は建築家のアントニン・レーモンドが設立し、旧アメリカ大使館や軽井沢聖パウロカトリック教会など多くのモダニズム建築を手掛けました)。冒頭のように、球場スタンドの一部を体育館の観客席としたほか、掘り下げられたダッグアウト(ベンチ)を地下通路にするなど既存施設を活用しました。

 それだけではありません。球場のセンター後方にあったバックスクリーンは、校庭の南に「バックボード」として移設され、学校の教育目標が掲示されていました。高さ6メートル、幅11メートルの大きなボードは、50年近く児童の成長を見守り続けたのです。このように野球場の建造物を教育施設に再利用したのは、全国でも希少ではないでしょうか。

 残念ながら今般の改築工事により、球場ゆかりのスタンドやバックボードは撤去されました。それでも、詩人・山室静(1906年~2000年)が1959年に作詞した校歌には「広い庭には 白いボールが とぶよ」の一節があり、児童の元気な歌声により“白球”は今も岩村田の街を飛び交っています。

【NPB公式記録員 山本勉】

調査協力・佐久市立岩村田小学校
参考文献・「新しい命の火をともし」岩村田小学校分離記念誌