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【球跡巡り・第29回】近鉄パールス 幻の準専用球場 富洲原球場

 三重県の北部、四日市市と桑名市の間に三重郡川越町があります。西に鈴鹿山脈、東に伊勢湾を望む人口15000人余りの小さな街に、球団発足直後の近鉄パールスが進出を目論んだ富洲原球場がありました。

 近鉄名古屋線の川越富洲原駅から徒歩10分。国道1号線沿いの今はショッピング施設としてにぎわう場所に、第二次世界大戦期まで漁網の生産高日本一を誇った平田漁網製造(のちに平田紡績)株式会社の川越工場がありました。1947年4月、その工場敷地の一部を借用して野球場を造ったのはプロ野球参入前の近鉄でした。この時代、多くの鉄道事業者は自社沿線に球場を整備し、選手やファンを輸送することで運賃収入の増大を図ったのです。

 プロ野球初開催は一リーグ最後の1949年でした。中日が大陽、阪神、大映を同行し3試合を開催。中でも5月28日に行われた人気球団阪神との一戦には、収容人員8100人の球場に12000人が詰めかけました。しかも、当時としては珍しく両チームで6本塁打が飛び交う打撃戦になり、7対7と同点の9回裏に中日の主砲西沢道夫が劇的なサヨナラ2ラン本塁打を放つ好ゲームでした。

 その年の晩秋、近鉄はプロ野球進出を決めパ・リーグに加盟します。球団事務所を大阪上本町に構え、専用球場は藤井寺としました。パ・リーグ初年度の1950年は120試合制で、各チーム60試合を主催。当時はまだ今に繋がるフランチャイズ制度がなく、近鉄は藤井寺を専用球場としたものの開催は17試合でした。その代わり、自社沿線の奈良県の美吉野、春日野、三重県の宇治山田、松阪などを行脚し、ファン獲得とともに鉄道利用の増加を期待したのです。

 中でも富洲原では4試合を開催しました。近鉄の中核路線である名古屋線の沿線にある球場が、藤井寺に次ぐ位置付けになれば、との思惑は想像に難くありません。しかし、現実は厳しいものでした。集客は初開催の4月12日南海戦での3800人が最多で、以降3200人、2600人と減少し、10月6日の西鉄戦はわずか700人。4試合を足しても1万人がやっと。前年の中日対阪神戦の観客にさえ及びませんでした。

 近鉄本社が1950年秋に発行した社内誌に富洲原球場のことが記されています。「野球熱は今後も益々盛んではあるが、現在の球場ではプロ野球を開催するには狭く、一万五千人から二万人収容の設備も必要である」とハード面の問題を指摘。掲載の航空写真でもわかる通り、グラウンドの左中間と右中間には膨らみが全くなく、ほぼ正方形の造りだったのです。続けて「拡張は国道と工場に挟まれている関係上、至難と考えられるので、別の沿線に建設するのが理想である」と厳しい文言が並びました。結局、近鉄が富洲原で公式戦を行ったのはこの1年限りで、目論んでいた準専用球場化は立ち消えました。

 それでも当時、三重県北勢地域でスタンドを備えた球場はここだけでした。元高校球児で、卒業後は平田紡績の人事課に勤務し富洲原球場の貸し出し管理も行っていた川村泰夫さん(90)は「選手はみんな富洲原で試合をやりたがっていましたね。抽選会でここを引き当てると大喜びでした」と回想。プロ野球の舞台としては物足りなくとも、地元の高校球児たちにとっては憧れの地だったのです。

 高校野球の地区予選のほか、自社の実業団野球チームの練習場としても活用されましたが、1971年に球場は閉鎖されます。その後はボーリング場としてにぎわいましたが、運営していた平田紡績の工場敷地売却に伴いこれも閉鎖。跡地は紆余曲折を経て、ショッピング施設になり地域住民が集っています。すぐ脇にある国道1号線は幹線道路として途切れることなく車が行き交い、かつてこの場所に球場があったことなど想像もできませんでした。

【NPB公式記録員 山本勉】

調査協力・川村泰夫さん
川越町あいあいセンター図書室
近畿日本鉄道株式会社 広報部