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【球跡巡り・第30回】広島カープ揺らん期を見つめた 河川敷の桜 三次市営球場

 球団創立70周年を迎えた広島カープ。本拠地マツダスタジアムはボールパークと呼ぶに相応しい雰囲気を醸し出し、昨年度も200万人を超す観客を集めにぎわいました。しかし、創立当初は開催球場を確保するのにも苦心し、民間企業の敷地内にあるグラウンドや高校の校庭を借りました。極め付きは河川敷に造られたグラウンドでも試合を行っています。

 広島県北部に位置する三次市は、標高150~250メートルに広がる盆地の地形を生かしたブドウ栽培が盛んな街です。JR三次駅から北へ15分ほど歩くと、市内を東西に流れる馬洗川の河川敷に広がる十日市親水公園に着きます。かつてここに、日本で唯一の“河川敷でのプロ野球”が行われた三次市営球場(1953年までは十日市町営グラウンド)がありました。

 十日市野球協会らの勤労奉仕により河川敷の整備が始まったのは1949年。堤防の土手にコンクリートで客席を造り、バックネットも設置して球場が完成したのは1951年でした。しかし、プロ野球初開催は完成前の1950年6月7日で、大洋対広島戦を行っています。三塁側の土手はまだ土盛りで、バックネットは竹竿に網を吊るしただけの代用品でした。この時の主催は広島ではなく、山口県下関市に球団を構えていた大洋。理由は大洋の正捕手を務める門前真佐人が現在の三次市出身で、地元ファンの集客を見込んでの興行だったのです。

 平日の昼間にも関わらずスタンド、いや河川敷の土手には10,000人の観衆が詰めかけました。広島に2点を先行され迎えた2回裏、大洋の門前が期待に応えます。広島の先発長谷川良平からレフトへ同点の2点本塁打を放ち、ファンの喝采を浴びました。しかし、門前が注目を集めたのはここまでで、その後の主役は広島打線でした。3回に阪田清春の3ランなどで6点を挙げると、5回には樋笠一夫の8号本塁打などで4点。この回で早くも全員安打の15安打を記録すると、7回は二死後に1四球を挟み8連打のつるべ打ちで一挙10点。結局、先発全員得点、全員安打、全員打点をマークし22対2と圧勝しました。ゲーム28安打は今も破られないセ・リーグ記録(同年10月17日に大洋も28安打のタイ)で、22得点もチーム最多記録として残ります。

 ほとんどがプロ野球初観戦だった観客に、その醍醐味を示すには十分の内容でした。地元出身の門前捕手が目当てだったファンの心にも、広島カープが刻まれたことでしょう。1951年に施設が整うと、広島は翌1952年~57年の間に13試合を主催しました。堤防から少し路地を入った所に今も暮らす新佛隆男さん(91)は、何度か球場に足を運びました。「河川敷と言っても内野スタンドにスコアボード、外野フェンスもあり、それなりに整っていましたよ。何より春は三塁側の土手の桜が咲いて、とても綺麗でした」。70年近く前の情景を思い浮かべます。

 球団はこの「桜」に目を付けました。堤防沿いに咲く桜を愛でながらの野球観戦―。河川敷のメリットを最大限生かすべく、主催試合開催2年目の1953年以降、必ず1試合は4月にゲームを組んだのです。

 1959年まで球団代表を務めた河口豪は、著書『カープ風雪十一年』で<三次球場の三塁側内野席は桜花の下にしつらえてある。桜堤の下をそのまま観覧席にしているわけだ。ファンは一升瓶をかかえ、グビリ、グビリ(チビリ、チビリにあらず)とやりながら、野球見物。カープがヒットを放ち、得点にでもなろうものなら大騒ぎ、ヤンヤの喝采だが、茶碗酒がそのまま祝杯となっていく。桜花、一片二片ヒラヒラと、茶碗の中に舞い入る風情はまたひとしおである。両手に花とは、三次球場のためにある言葉のようだ>と記しています。1954年4月20日の中日戦は10点を挙げての大勝。さぞスタンドは盛り上がったことでしょう。

 国鉄時代の金田正一投手も、このマウンドに立っています。1957年4月6日の広島戦に先発すると、被安打3、12奪三振の快投で2失点完投勝利。永久不滅の400勝の中には、河川敷球場で挙げた1勝も含まれているのです。この年の7月、待望のナイター設備を完備した広島市民球場が完成。するとカープの地方での主催試合は激減し、河川敷でのプロ野球もこれが最後となりました。

 三次市は度重なる洪水被害に見舞われて来ましたが、中でも1972年の「7月豪雨」では馬洗川の堤防が溢水破堤し、死者22名、床上浸水3464戸と甚大な被害が出ました。その後、堤防修復工事にあたり野球場の移転が計画され、1979年に市内西酒屋町に新球場が完成。旧球場は廃止され、跡地はサッカー場や軟式野球のグラウンドに整備されました。

 昨年春、桜の季節に訪れました。土手に造られた三塁側スタンドは往時の形で残され、堤防沿いの桜並木もちょうど満開を迎えていました。毎年、三次の野球ファンは中国山地の山間にやって来る、ちょっと遅い春とカープを楽しみにしていたことでしょう。

 先人たちが苦境の中でも紡いできたプロ野球の灯。今年、再び球音が響くことを願っています。

【NPB公式記録員 山本勉】

調査協力・新佛隆男さん
三次市役所
参考文献・「カープ風雪十一年」河口豪