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【球跡巡り・第5回】紅顔の美少年・大田垣喜夫 母校で凱旋登板 尾道西高校グラウンド

 仮設の内野スタンドに、荒縄がフェンス代わりに境界線として張られた外野。レフト後方に広がる海を、漁船がポン、ポン、ポンとエンジン音を立てながら過ぎ去って行く―。1950年5月21日、広島県尾道市で初めて行なわれたプロ野球公式戦、広島対大洋4回戦の会場は尾道西高校(現尾道商業高校)の校内にある海岸に面した「校庭」でした。

 専用野球場ではないので、整備は万全ではありません。スコアカードの球場状態を記す欄には「不良、固い」とあり、翌日のスポーツ紙も「校庭であるため地面が固く、凹凸が多く、野手を困らせた」と報じています。加えて、戦争末期には陸軍が同校に入ってきて、グラウンドの一部を畑にし、豚を飼っていたため、畑があった右中間後方はその名残で雑草が生い茂っていました。

 2回裏、1死一、二塁で広島の九番・松川博璽の放った打球は、右中間をライナーで破り、その校庭端の草むらへ転がり込みます。大洋の外野手二人がボールを捜している間に、打者走者の松川も生還したランニングホームランは“ジャングルホームラン”として語り継がれています。松川選手にとって、これが生涯唯一の本塁打でした。

 「校庭でのプロ野球」により、母校でプレイをする機会を得た選手がいます。尾道西高校から1952年に広島に入団した大田垣(1957年から備前)喜夫投手です。高卒ルーキーながら、紅白戦で好投し開幕戦のマウンドを託された期待の右腕は、7月23日に母校で行なわれた対阪神12回戦の先発マウンドに立ったのです。

 詰め掛けた2500人の観衆の目は、チームメイトから“バンビ”の愛称で呼ばれた紅顔の美少年に注がれます。その期待に応えるべく、大田垣は慣れ親しんだマウンドで躍動。味方が序盤に2点をリードすると、阪神打線を7回まで被安打2、無失点に抑えます。しかし、8回2死から四球を挟み3連打を浴び5失点。2対5で敗れ、負け投手となりました。

 リベンジの機会は、翌年4月1日の洋松2回戦でした。この日も先発マウンドに上がると、4回まで無失点の好投。その裏、白石勝巳が放った右中間への飛球は、フェンス代わりに境界線として張られた荒縄をすれすれに越え、一塁塁審の筒井修は本塁打と判定。これに対し、洋松の小西得郎監督は「観客が縄を引き下げたのでホームランではない」と抗議をしましたが、聞き入れられません。この後、「縄に手を触れないでください」と再三場内アナウンスがされたという微妙な一打は、ファンが協力して生まれた“縄ホームラン”として伝えられています。

 本塁打で1点を先制してもらった大田垣でしたが、7回に洋松の藤井勇に同点打を許すと降板。その藤井を、リリーフ投手が生還させ2失点。結局これが決勝点となり1対2で惜敗し、不運にも2年連続母校で敗戦投手に。故郷ならぬ「母校へ錦」を飾った凱旋登板は、ホロ苦いものになりました。

 この縄ホームランが契機となり、セ・リーグ鈴木龍二会長は全球団に規格外の球場を使用しないよう警告を出します。校庭でのプロ野球はこの尾道西高校での試合が最後になりました。戦争直後の球場不足を象徴する試合は延べ5校で、8試合行なわれましたが、母校のグラウンドでプレイしたのは8500人を超すプロ野球選手の中でも、大田垣を含め尾道西高出身の3人しかいない貴重な記録です。

 1888年に「公立尾道商業学校」として開校し、数度の改称と移転を経て、今年10月には節目の130周年を迎える広島県最古の商業の伝統校。プロ野球を3試合行なったグラウンドは、今も尾道商業の校内にあり、大田垣の後輩部員たちが甲子園出場を目指して白球を追っています。

【NPB公式記録員 山本勉】

調査協力・広島県立尾道商業高等学校
参考文献・「広島東洋カープ球団史」広島東洋カープ
     「PEACE CARP TIMES」中国新聞社
写真提供・広島県立尾道商業高等学校