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【球跡巡り・第18回】「城壁のバックスクリーン」で行われた唯一のプロ野球 白河市営城山球場

 みちのくの玄関口、福島県白河市。1000人を超す戦死者を出した戊辰戦争「白河口の戦い」の地としても知られ、その主戦場となった白河小峰城は大半を焼失し落城した歴史が残ります。城の二の丸跡が町民の公園広場を経て野球場に整備され、「城山球場」として開場したのは1952年8月でした。

 草野球が盛んだった県南地区待望の野球場は、水はけの良さが自慢でした。白河野球連盟の副会長を務めた中上徹さん(75)は「球場の目の前が国鉄の機関区で、石炭の燃えガラがたくさんあったようです。それをもらってグラウンドの下に敷き詰めたそうです。水はけの良さは有名で、県内でも一番でしたね」と回想します。

 蒸気機関車の燃料だった石炭のガラは、直径が10ミリに満たない小石のようなもの。敷き詰めた石炭ガラの隙間に雨水が染みこみ、水はけを速めるようです。1924年に完成し、水はけの良さでは定評の甲子園球場も、1990年代半ばまで表面の土から10センチほど下に石炭ガラを敷いていました。情報伝達が盛んでなかった時代に、水はけの良さを求め英知を絞った球場設計者が、みちのくの地にも存在したのです。

 プロ野球開催は球場完成4年後の1956年。6月にセントラル野球連盟からプロ野球の興行規格を満たした球場として公認されます。それを記念して7月7日に大洋対広島戦が行われ、広島が5回に木下強三のタイムリーで挙げた得点を守り抜き1対0で辛勝。大洋・秋山登、広島・長谷川良平とエース同士の息詰まる投手戦を、6000人の観衆が見つめました。

 唯一の一軍戦開催となったこの時、どの球場にも必ずあるバックスクリーンが設置されていませんでした。白河野球連盟で30年近く審判員を務め、このグラウンドにも立った河崎和昭さん(59)が記憶をたどります。「バックスクリーンが出来たのは、確か昭和50年代になってからです。それまではお城の石垣が“天然”のバックスクリーンでしたね」。1967年(昭和42年)撮影の球場写真には、左中間から右翼方向にかけて本丸を囲んだ10メートルを超える高さの城壁だけが写っています。その横幅は50メートル以上もあり、バックスクリーンとしての機能を十分に果たしていました。

 プロ野球は姫路城、弘前城、熊本城、松山城などの名城を含め、全国14ヶ所の城郭にあった野球場でも試合を行っていますが「城壁=バックスクリーン」はここだけ。この試合は史上唯一、お城の石垣をバックスクリーンにして行われた一軍公式戦でした。

 二軍戦は4試合開催しています。前出の河崎さんは小学4年生の時に父親に連れられ、弟と一緒に巨人対大洋のイースタン・リーグを観戦しました。「巨人、大鵬、卵焼きの世代ですから、二軍戦でも巨人の選手を見られるのが嬉しくてね。最高のご褒美でした。」奇しくも試合が行われたのは、5月5日こどもの日。巨人・山内新一投手の投げる姿が、50年経った今でも脳裏に焼き付いているそうです。プロ野球選手と接する機会の少なかった野球少年にとって、幼い頃の思い出は生涯の宝物なのです。

 野球場では野球のほか、白河馬市という馬の競り市や競輪も行われ賑わったそうです。しかし、史跡公園としての整備が決まり1987年に施設を撤去。跡地は再び公園広場として、市民憩いの場になっています。戊辰戦争により焼失していた建物は、1991年に三重櫓、1994年に前御門が発掘調査や江戸時代の精巧な絵図をもとに木造で忠実に復元され、往時を偲ばせています。

【NPB公式記録員 山本勉】

調査協力・白河市立図書館
参考文献・全国高等学校野球選手権大会「100回史」 朝日新聞出版
白河日報(1956年6月27日)