• セントラル・リーグ
  • 阪神タイガース
  • 横浜DeNAベイスターズ
  • 読売ジャイアンツ
  • 中日ドラゴンズ
  • 広島東洋カープ
  • 東京ヤクルトスワローズ
  • パシフィック・リーグ
  • 福岡ソフトバンクホークス
  • 北海道日本ハムファイターズ
  • オリックス・バファローズ
  • 東北楽天ゴールデンイーグルス
  • 埼玉西武ライオンズ
  • 千葉ロッテマリーンズ
  • 侍ジャパン

日本野球機構オフィシャルサイト

ニュース

NPBニュース

【球跡巡り・第102回】張本勲さんがプロ野球人生をスタートさせた 駒澤球場

 NPB歴代最多の通算3085安打を放った張本勲さんの急逝が報じられたのは、夏の暑さが残る9月上旬でした。張本さんが大阪の浪華商(現大体大浪商)を卒業して18歳で入団したのが東映フライヤーズ(現北海道日本ハム)で、本拠地は世田谷区にあった駒澤球場。稀代の“安打製造機”に思いを馳せ、青春時代を過ごした街を散策しました。

 JR山手線の渋谷駅で東急田園都市線に乗り換え、3駅目の「駒沢大学」で下車。瀟洒(しょうしゃ)な家が建ち並ぶ住宅街を10分ほど歩くと、緑豊かで広大な駒沢オリンピック公園に着きます。駒澤球場はこの公園の一角にありました。

 かつてこの場所には1913年に開場した東京府内唯一の東京ゴルフ倶楽部があり、戦時中は日本陸軍に接収され駒澤練兵場となりました。野球場が出来たのは終戦から8年後の1953年秋。東映の前身である東急フライヤーズの親会社東京急行電鉄(現東急)が建設し、東京都に寄贈。翌54年、東急から球団運営を受託した東映がここを本拠地にしました。

 今では高級住宅地の駒沢ですが、70年ほど前は周り一面が畑で殺風景でした。この球場で1959年からプロ野球人生をスタートした張本さんは生前、「原っぱの真ん中にあるような球場でした。内外野とも土のグラウンドで、内野は少し整備してあるが、私が守る外野はデコボコなまま。ところどころに芝ではなく草が生えており、夏になると蚊が飛んできて、足を食われました」と、思い出を語っています。(週刊ベースボールオンライン、2020年4月12日)

 張本さんが過ごした東映の合宿所「無私寮」は球場から徒歩5分ほど、駒沢公園通り沿いにありました。木造の古い病院を改造した建物で、食堂の入口には「診察室」の木札がそのまま残る風変りな寮でした。その跡地にはマンションが建っていますが、道路を挟んで寮の正面にあった自転車屋(現在は廃業)の家屋は現存します。そこに住む榎本悦夫さん(81)は球場界隈を遊び場にして育ち、スタンドへも足を運びました。

「試合が終わると選手と一緒に用具を担いで、寮まで歩いて帰ったりした。張本さんは、打てなかった時に寮の玄関のガラスをバットで叩き割ったこともあったね」と、血気盛んだった頃のエピソードを思い浮かべました。「3歳下の弟は寮の部屋に連れて行ってもらい、米川(泰夫)さんから飴やお菓子をもらったこともあった。みんな優しかったよね」と、選手たちとの触れ合いを記憶に留めています。

 8月に逝去した韓国出身の白仁天さん(享年83)のことも忘れられません。1962年1月、東映に入団。チームはこの年から本拠地を神宮球場に移しますが、合宿所は「無私寮」を使い続けました。「我が家の裏に税務署の寮があるんだけど、夜になると毎日その前の路地で街灯を頼りに黙々とバットを振っていたよ。彼は真面目だったなあ」。海峡を越えて来日し、後にパ・リーグ首位打者を獲得した若者の姿が脳裏に焼き付いています。

 駒澤球場は、周辺一帯が1964年に開催の東京五輪の会場となることが決まり、61年のシーズン限りで閉場。東映が本拠地にしたのは8年間で、一軍公式戦は両リーグ合わせて685試合が開催されました。前述のように藪蚊が飛び交い、強風の日には周りの畑から砂塵が舞い上がり、野球観戦には厳しい環境でした。おのずと集客に苦戦します。特にナイター設備のなかった移転1年目の54年は、主催55試合のうち19試合で観衆1000人以下を記録。6月8日の対阪急6回戦は、わずか150人でした。

 前代未聞の珍プレーの舞台にもなりました。1960年7月19日に行われた東映対大毎17回戦でした。8回表、1対3とリードされた大毎は二死満塁のチャンスを作り、打席には山内和弘。マウンド上にはこの回の途中からリリーフした土橋正幸。フルカウントからの6球目は外角へのスライダー。山内は見逃すも、井野川利春球審はストライクのコール。三振でチェンジかと思われましたが、東映の安藤順三捕手はこの投球を取り損ねました。

 この場合、守備側は打者走者もしくは塁上のいずれかの走者を封殺しなければアウトは成立しません。ところが安藤は拾ったボールをマウンド方向へ転がし、ベンチへ引き上げたのです。この状況を見ていた大毎の西本幸雄監督は「走れ!走れ!」と叫び、その指示に従った塁上の3人は無人のダイヤモンドをホームへ。ベンチに帰りかけていた山内も慌ててベースを一周し、大毎は一気に4得点。球史に残る「満塁振り逃げランニング“ホームラン”」の珍事が起きたのです。

 野球場は1962年に取り壊され、64年の東京五輪では球技場として整備されホッケー競技が行われました。いまは「第二球技場」として人工芝が敷き詰められ、主にサッカーが行われています。また、五輪後の65年3月にはその球技場の西側に「駒沢野球場」が新設されました。高校野球の都大会などが行われ、70年前と変わらず白球が飛び交っています。

【NPB公式記録員 山本勉】

調査協力・榎本悦夫さん
野球殿堂博物館
参考資料・週刊ベースボールオンライン(2020年4月12日)