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【球跡巡り・第1回】両翼78メートル。本塁打を量産したプロ野球のメッカ 後楽園スタヂアム

 王貞治長嶋茂雄の「ON」コンビが躍動し、プロ野球史に燦然と輝くV9を成し遂げた巨人の本拠地・後楽園スタヂアム。東京初のプロ野球専用球場として、小石川にあった砲兵工廠(こうしょう)跡地に、着工から完成までわずか5カ月間の突貫工事で1937年9月に開場しました。

 本塁から両翼まで78メートル、中堅まで120.5メートル。1924年に開場した甲子園球場(両翼91.4メートル、中堅118.9メートル)と比べると、両翼までの距離が13メートル以上も短く作られました。1934年にベーブ・ルース一行とともに来日した、大リーグ選抜総監督のコニー・マックが「ヤンキー・スタジアムやその他の米国のグラウンドは、たいてい右翼と左翼が近くなっていて、そこにホームランを叩き込めるようにしてある。こういうグラウンドの構成は、ホームランを出すばかりではなく、打撃とピッチングの進歩に大いに貢献する」と、球場建設に対し助言。設計者がそのアドバイスを忠実に取り入れたのです。

 果たして、戦前の本塁打数は甲子園の15.9試合に1本塁打に対し、後楽園では1.7試合に1本塁打と、10倍近く量産されました。1941年に甲子園では77試合を行いましたが、本塁打は0。一方、後楽園では175試合で93本塁打と、プロ野球の醍醐味が味わえました。

 しかし戦後、打者の技術が向上すると、両翼78メートルでは球場が狭過ぎました。そこで1949年のサンフランシスコ・シールズ(3A)の来日を機に、両翼ポールから左中間、右中間のフェンスにかけて“アンラッキー・ネット”という網を張り、本塁打を防ぎました。さらに1958年にはその網を取り外し、両翼を12メートル拡張し90メートルに。開場から22年、ようやく他球場並みの広さになりました。

 1949年は8球団で一リーグでしたが、1950年には二リーグに分立し、球団数は一気に2倍近い15に。当時、東京でプロ野球を開催できるのは後楽園しかなく、球場問題に頭を抱えました。両リーグ会長、正力連盟総裁、それに球場側も加わった話し合いの結果、巨人、国鉄、毎日、大映、東急の5球団が専用球場として使用することになったため日程のほとんどを、変則ダブルヘッダーで消化しました。1950年に開催した年間288試合(全体の30%)、同年7月の月間46試合は、永久に破られることのない興行数でしょう。

 1959年、天覧試合での王、長嶋初となるONアベック弾。王の世界新記録となる756号、公式戦最後の868号も後楽園で刻まれました。また、施設整備では1970年にスコアボードの電光掲示化を、1976年には人工芝の敷設を、日本の野球場として初めて実施。1987年に50年に及ぶ歴史に幕を下ろすまで、開催した試合数7168、本塁打1万416は、どちらも球場別ランキングの1位です。試合数2位は甲子園球場の5206で、その差は2000試合近くもあります。近年甲子園の年間試合数は60強ですから、この先30年はその座を譲りません。プロ野球が今日の隆盛を迎えるまでに、後楽園が寄与した貢献度は計り知れません。

 1988年から戦いの舞台は隣に建設された東京ドームへ移りました。跡地には高層ホテルが建てられ、今も変わらぬ賑わいが続いています。

【NPB公式記録員 山本勉】

参考文献 ・「後楽園の25年」後楽園スタヂアム刊
写真提供 ・野球殿堂博物館