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【球跡巡り・第100回】維新の街に刻まれた“黒船”の二発 萩市民球場

 JR新山口駅前を出た路線バスは新緑が眩い山間部を抜け、日本海に面した山口県萩市に到着しました。明治維新の原動力となった偉人を多く輩出した街は、かつて城下町として栄えた雰囲気が漂います。中心部にある中央公園には大きな芝生広場があり市民憩いの場になっていますが、ここに2000年初頭まで萩市民球場がありました。

 完成は1956年秋。唯一の一軍公式戦となる広島対巨人戦が行われたのは翌春の4月23日でした。主催の広島球団は、この年7月に開場する広島市民球場への本拠地移転を前に最後の地方行脚。開幕から一カ月足らずの間に福山、三次、宇部、別府でゲームを行い、萩にやって来ました。

 この日の萩市は5日間降り続いた雨が上がり最高気温16度。外野席を含めても収容人員6000人の小さなスタンドは開始前にほぼ埋まりました。始球式でマウンドに立ったのは萩市の助役。肩まで伸びた髪が、勤王の志士を多く輩出した土地柄を思わせました。

 巨人・堀内庄、広島・川本徳三の先発で始まった試合は、1回裏に広島の先頭平山智外野手が2球目をレフトポール際に本塁打を叩き込みます。巨人の反撃はその後両チーム1点ずつを取り、1対2で迎えた6回表でした。1死一、二塁のチャンスを作ると、5番宮本敏雄外野手が左中間の場外へ逆転3ラン。試合はその後も追加点を奪った巨人が7対2で快勝しました。

 先頭打者本塁打を記録した平山が米カリフォルニア州出身の日系二世なら、殊勲の逆転アーチを放った宮本も米ハワイ準州出身の日系人でした。この年の外国籍選手は、キューバ出身のR.バルボン(阪急)と台湾出身の呉昌征(毎日)以外の8人は日系人。「維新の街」で唯一行われた公式戦で本塁打を刻んだのは、当時の球界に定着しつつあった日本にルーツを持つアメリカからの“黒船”だったのです。

 当時中学3年生で、球場近くに住んでいた手倉進(てぐら・すすむ)さん(83)はこの試合を観戦していました。「5歳上の兄の影響で小さい時から西鉄の大ファンでした。アンチ巨人でね(笑)。なので、この日プロ野球が来ていることは知りませんでした。たまたま近くを通ったら試合をやっていたので、一人で当日券を買って入りました」。70年近く前の記憶の扉が開きました。

「中に入った時はもう3回ぐらいだったかな。スタンドはほぼ埋まっていたので、一塁側の一番外野寄りに座って観戦しました。試合は巨人が勝ちましたよね?巨人の宮本という選手が逆転ホームランを打ったことを覚えています」。前述のように、6回表に1点差のビハインドから飛び出した巨人宮本選手の逆転3ランを、しっかりと脳裏に焼き付けていました。

「それまでシーンとして静かだったけど、宮本選手のホームランでスタンドが大盛り上がりしたのです。それは鮮明に記憶に残っています」。宮本は来日2年目の前年、勝負強い打撃で69打点を挙げリーグの打点王を獲得。この場面も前を打つ4番川上哲治が敬遠で歩かされた直後に、球場のボルテージを最高潮に導く殊勲の一打を放ったのです。

 手倉さんは小学生の時に軟式野球を始め、高校時代は萩市民球場のはす向かいにある萩商工で白球を追いました。「試合はもちろん練習でもよく使いましたから、(野球場は)ホームグラウンドのような所でした」と懐かしみます。球場外周は一周480メートルのランニングコースになっていて、数えきれないほど走り、汗をしみこませました。高校1年の夏は背番号「14」をもらいベンチ入りし、3年生では三塁手として活躍。甲子園出場は果たせませんでしたが、卒業後は社会人野球の山門鉄鋼所(下松市)でプレーするまでに、自らを成長させてくれた場所でした。

 北浦地方初のプロ野球公認球場として重宝されていましたが、21世紀を迎えたころには老朽化が進みました。1998年に新球場(萩スタジアム)が完成したこともあり、お役ご免に。2005年の夏から秋にかけて取り壊されました。

「外野フェンスはコンクリートがむき出しで、ラバーもありませんでした。外野の芝生も最後のほうはソフトボールで使うからか、はがされていましたね。そんな田舎の球場でしたが、閉鎖になると聞いたときはガックリしました」と手倉さんは振り返ります。1963年の山口国体ではソフトボールの主会場になり、昭和天皇、皇后両陛下も来場された由緒ある球場も記憶の中のものとなりました。

 跡地は冒頭のように中央公園として整備され、軽スポーツ広場や大芝生広場がつくられ市民が集っています。公園入口には馬にまたがった山縣有朋の銅像があり、明治時代に日本陸軍の基礎を創った萩市出身の英雄を讃えています。

【NPB公式記録員 山本勉】

調査協力・手倉進さん
萩市役所
萩市 萩図書館
写真提供・萩市役所
山口県高等学校野球連盟
参考文献・読売新聞(1957年4月24日、2005年8月18日)