【球跡巡り・第101回】名物スカウトは見た! 大物レスラーのKOシーン 大牟田延命球場(旧)
福岡県の最南端に位置し、有明海にも面した大牟田市は三井三池炭鉱の石炭資源を背景に活況を呈した街でした。各炭鉱所はグラウンドを所有し、対抗野球大会が盛んに行われました。大牟田市で初めてプロ野球が開催されたのも、三川にあった炭鉱所の野球場でした。
【球跡巡り・第50回】西鉄初の満塁本塁打が刻まれた 大牟田三川鑛球場
その大牟田に初めて公設球場が出来たのは1951年春。40年に開設された延命公園内に「大牟田延命球場」として開場しました。ただし、この場所は57年秋に開かれた「大牟田産業科学大博覧会」の会場となり、球場はその前年に閉鎖。わずか6年しか稼働しなかった“短命球場”だったのです。(その後、公園内の隣接地に現在もある2代目の延命球場が建造されました)
その6シーズンに一軍公式戦を6試合(パ5、セ1)開催。パ・リーグ5試合は全て地元球団西鉄の主催でした。1953年8月22日に行われた西鉄対東急13回戦で西鉄の先発マウンドを任されたのは、何と8月上旬に“アルバイト投手”として入団したA.ロング投手でした。
この年のパ・リーグは1月の理事会で「勝率3割5分を割った球団は来年度(1954年)選手権試合を休場する」と、厳しい取り決めをしました。西鉄は7月15日からの12試合を1勝11敗と大敗。8月5日時点の勝率は4割を切る.392と危険水域に突入しました。幸い外国人枠に空きがあったので、兵役で来日し米軍の「キャンプ東京」に勤務していたロングとP.ペインの両選手をアルバイト投手として獲得したのです。
アルバイトと言っても実力は確かでした。ペインが1951年にメジャーで2勝。一方のロングはメジャーでの実績こそありませんが、17歳でヤンキースに入団の有望株でした。そのロングは初登板の8月16日の南海戦(平和台)で3失点(自責点1)完投勝利。そして日本球界で2試合目となったこの日は、延長13回までもつれた試合を一人で投げ抜き、169球の熱投でした(試合は日没コールド、5対5の引き分け)。弱冠22歳。身長187センチの大型右腕は、詰めかけた約7000人の観衆に大きなインパクトを与えたことでしょう。
ロングは次戦、8月29日の大映戦(平和台)では95球で完封勝利。“マダックス”で無傷の3連勝をマークしました。もう一人のペイン投手も、8月23日のデビュー戦(対東急)こそ0対1で惜敗しますが、その後の2試合は完投で連勝と期待通りの働き。西鉄は両アルバイト投手の活躍があり、9月10日に23試合を残してシーズンの「勝率3割5分以上」が決定します。ペインはその後も投げ続けましたが、ロングは上記3試合でお役御免に。一軍帯同わずか2週間。まさしく「短期アルバイト」で、日本球界から風のように去っていきました。
広島球団のスカウトとして名選手の原石を数多く発掘してきた苑田聡彦(そのだ・としひこ)さん(81)は大牟田市の出身です。「(今もある)延命球場なら高校時代に試合もしたから覚えていますが、古い球場があったとは知りませんでした」と振り返ります。それでも球場で起きた、ある衝撃のシーンを鮮明に覚えていました。
「小学生の時に一人で西鉄対巨人のオープン戦を見に行きました。試合前の打撃練習でピッチャーをしていたのは馬場さん(正平=のちのプロレスラー・ジャイアント馬場)ですよ。投げている前に防球ネットがなかったので、ピッチャー返しの痛烈な打球が馬場さんのお腹あたりを直撃したんです。それで投げることが出来なくなり、三塁側ベンチに引き揚げて行きました」。リングならぬマウンドでの“KOシーン”が、瞼に焼き付いているのです。
記録をたどると試合が行われたのは1955年2月28日でした。この時、苑田さんは10歳で小学4年生。存在の記憶がないという、初代延命球場での出来事でした。この年の巨人は2月上旬から3月中旬まで主力メンバーが中南米遠征に出かけており、一軍のオープン戦は若手メンバーで構成。この日のスタメンも高卒ルーキー3人が名を連ね、平均年齢21.6歳。前年10月に新潟県の三条実業(現新潟県央工業)を中退して16歳で入団した馬場投手にも、一軍帯同の機会が与えられていたのです。
「馬場さんは身長が2メートルぐらいあったでしょ。私は外野席から見ていたのですが、それでも大きかったなあ」。70年以上前の記憶が蘇ります。結局、この日馬場投手は試合で登板する機会はなくアピールできませんでした。5年間のプロ野球での一軍成績は3試合に登板し0勝1敗。もし、ルーキーイヤーの不運な出来事がなければ、違った野球人生だったかも知れません。
初代延命球場の跡地は前述のように大博覧会の会場となり、石炭科学館が建設されました。閉会後はそれを改装し1958年3月に市民体育館が完成。それも老朽化により取り壊され、2024年春に大牟田市総合体育館(339おおむたアリーナ)が新装オープン。市民が集うスポーツの場になっています。
【NPB公式記録員 山本勉】
| 調査協力・ | 苑田聡彦さん 酒井俊作さん 福島公子さん |
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| 参考資料・ | 読売新聞(1955年3月1日) |