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【球跡巡り・第50回】西鉄初の満塁本塁打が刻まれた 大牟田三川鑛球場

 福岡県南部に位置する大牟田市は、かつて炭鉱の街として栄え「炭都」とも言われました。三井三池炭鉱は20あまりの坑口を持ち、最盛期には全国の石炭の4分の1を掘り出し日本のエネルギーを支えました。

 大牟田市の公設球場完成は1951年の大牟田延命球場ですが、プロ野球との関係はそれより早く、1940年に名古屋(現中日)が春季キャンプをこの地で行っています。詳しい場所は不明ですが、各炭鉱住宅はグラウンドを有し野球部も結成していたので、名古屋はどこかの炭鉱グラウンドを拝借したのでしょう。

 三池港に近い三川坑は1940年に開坑しました。ここの炭鉱住宅にもグラウンドはありましたが、1948年には石炭を貯蔵する貯炭場の一角に四方をフェンスで囲んだ野球場を建造。「大牟田三川鑛球場」として、10月に南海対大陽のオープン戦が行われました。翌1949年には東京大学が冬季合宿を行い、四ツ山や三川の炭鉱野球部と対戦した記録も残ります。

 プロ野球の公式戦初開催は2リーグに分立した1950年。福岡市を拠点に誕生した西鉄が、3月25日から始まった県内初のお披露目シリーズで29日に阪急戦を行いました。主催の大牟田市共同募金委員会は「愛の公式試合」と銘打って盛り上げ、地元民間放送局の菰原放送は市内各所のスピーカーから実況放送を流す熱の入れようでした。

 ところが、球場入りした選手たちは施設のあまりの粗末さに悲鳴をあげました。球場のフェンスが低いことに加え、両翼までの距離88.4メートルはまだしも、センターは103.7メートルしかありません。当日のスコアカードに「凹凸多し」とあるようにグラウンド状態も悪く、雑誌「野球界」の1950年6月号には「ヒドイ球場だなあ」との選手コメントとともに、「よく公式戦を許可したと思われた」とまで記されていました。

 航空写真を見ると、球場はグラウンドをフェンスで囲っただけで、スタンドはもちろんスコアボードやバックスクリーンも確認できません。終戦から5年のこの時期は、労働者の失業対策もあり各地に立派な公設の新球場が完成していたので、選手たちの嘆きもうなずけます。

 試合は球場環境を反映したのかのような乱戦となりました。荒れたグラウンドで両軍合わせて6失策を記録。5本塁打が飛び交い、双方が2ケタ得点を挙げた打撃戦はおひざ元の西鉄が12対10で勝ちました。そんな中、3回裏1死満塁の好機に西鉄の兼任監督を務める宮崎要二塁手が、阿部八郎投手から左中間に打ち込んだ一発は、球団初の満塁本塁打でした。翌年にセ・リーグの西日本と合併し西鉄ライオンズとなり、今は埼玉西武ライオンズとして球史を重ねるチームの、記念すべき第1号満塁本塁打は大牟田三川鑛球場で刻まれたのです。

 現在は関西地方に住む上田茂さん(73)は野球場に近い新港町の炭鉱住宅に生まれ、1967年まで20年近く暮らしました。「社宅の敷地内にグラウンドがあって、小学生の時はよくソフトボールをやりました。社宅対抗の大会があり盛り上がりました」と少年時代の記憶をたどりました。新港町と三川鑛球場は直線距離で500メートルほど。プロ野球開催時は2歳でしたが、小学生の頃に一度だけ球場を見たそうで「確か、社宅のグラウンドよりいいのがありました」と、かすかな記憶が残ります。三池炭鉱は1997年に閉山し、その歴史も語られることが少なくなったいま、野球場を知る人は貴重な存在です。

 前述のように球場状態があまりにも悪かったことと、翌1951年3月に市営延命球場が完成したことで、三川鑛球場での公式戦開催は1試合だけでした。球場は1962年の航空写真に写っていますが、1966年の写真では確認できません。この間に撤去されたのでしょう。

 跡地は更地に整備され、その一部は貯炭場として今も石炭が積まれていました。近くにある火力発電所の稼働燃料として、途絶えることなく輸入されているそうです。かつては「炭都」と言われた街に輸入石炭。時代が移ろい、炭鉱の街に存在した野球場が話題になることもないようです。

【NPB公式記録員 山本勉】

調査協力・上田茂さん
松永一成さん
大牟田市立図書館
写真提供・松永一成さん