【球跡巡り・第6回】西鉄黄金時代の「野武士軍団」が躍動した舞台 平和台野球場
福岡市の繁華街・天神から徒歩10分ほどのところにある舞鶴公園。福岡城址でもあるこの場所は、春には18種類、1000本を越す桜が花を咲き誇る名所となっています。平和台野球場は、その一角にありました。
完成は戦後の1949年12月。前年、同地で第3回国民体育大会が開催された際に建設された球技場を造り替えました。プロ野球初開催は二リーグに分立した1950年のセ・リーグ開幕戦(3月10日。西日本対広島、松竹対巨人の変則ダブル)。翌年に西鉄と合併することになる西日本パイレーツが、福岡市内に球団事務所を構えたこともあり、セ・リーグは九州の地で産声を上げたのでした(山口県・下関球場でも同時開催)。
それでも「平和台=西鉄ライオンズ」です。西鉄黄金期の歴史はここで刻まれました。1954年に初優勝を飾ると、中西太、豊田泰光、大下弘、稲尾和久らを擁したチームは1956年から1958年までリーグ3連覇。日本シリーズでも巨人も下し、3年連続の日本一を達成。スマートな宿敵を相手に、荒々しく立ち向かう選手たちはまさしく“野武士”に見え、その豪放、豪快な姿は平和台のスタンドを埋めたファンを熱くさせました。
今も語り継がれる伝説の本塁打があります。西鉄の中西太内野手が、入団2年目の1953年8月29日の大映戦で林義一投手から放った本塁打は、遊撃手がジャンプした打球が場外に消えた…と言われ、「160メートルは飛んだ」と言う関係者もいる、かつて日本最長飛距離の一打でした。NPBに残るスコアカードの雑記欄にも「バックスクリーンを越す場外ホームラン」とあり、担当の公式記録員は推定飛距離を「480ft(146メートル)」と記しています。
中西さんは「手応えは十分だったが、角度が少しなかったんで、一塁に全力疾走したから打球を見てないんや。自慢話をするにもネタがないんだよ」と、スポーツ雑誌のインタビューに苦笑いで答えていますが、ホームランの飛距離の大半が300ft台だった時代に、群を抜く一発だったことは間違いないようです。
その中西の1969年の現役最終打席も見届けた田北昌史さん(62)は、小学校1年生の時に見た1963年の日本シリーズ第2戦を皮切りに、300試合以上の西鉄戦を平和台で観戦しました。「ぶらぶら歩いて行けて、気軽に入れる球場でした。雨上がりのナイターは格別に美しかった」と、子供の頃の牧歌的風景が蘇ります。「ライトスタンド下のトイレに入ったら、隣に加藤初投手が来て、一緒に用を足しました。西鉄の選手でスターは一握りで、隣のお兄さんのような感じでしたね」。今ではあり得ない選手との距離感は、昭和の時代ならではのエピソードです。
ファンに愛されたライオンズでしたが、1979年に西武に買収され埼玉県へ。以降、ダイエーが福岡へ移転して来るまでの10年間、九州からプロ野球の球団が消えました。それでも平和台は、その間も年間20試合以上を開催しプロ野球の灯りをともし続けました。1989年からはダイエーの本拠地となりましたが、1993年に福岡ドームが完成するとその役目を終えます。さらに外野席付近で平安時代の迎賓館である「鴻臚館(こうろかん)」の遺構が発見されたこともあり、1997年に閉鎖となりました。
外野スタンドや外壁の一部は残されていましたが、2005年3月の福岡県西方沖地震により崩落の危険性が生じたため解体撤去。外野席だった場所に残る外周石垣が、球場を示す唯一の形跡で、更地が広がっています。結成当時、“九州の田舎軍団”とも揶揄されたライオンズが、日本一強い“野武士軍団”と呼ばれるまでに変貌を遂げた舞台は、緩やかな時間が流れていました。
【NPB公式記録員 山本勉】
参考文献・「プロ野球セ・パ誕生60年」ベースボール・マガジン社