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【球跡巡り・第11回】フォークボールの神様・杉下茂 神様の前でセ初の投手満塁弾 祐徳国際グラウンド

 詩人・野口雨情が<肥前名所は祐徳稲荷 運と福との授け神>と詠んだ佐賀県鹿島市の祐徳稲荷神社。京都・伏見、茨城・笠間とともに日本三大稲荷の一つに数えられ、この正月も80万人を超す参拝者が商売繁盛、家運繁栄等を祈願しました。荘厳華麗な本殿と道路を挟んで向かい側にある来訪者用の駐車場には、かつて祐徳稲荷神社が造った野球場がありました。

 昭和初期、全国の神社は球場建設に積極的で、明治神宮(1926年)、豊川稲荷(1928年)、札幌神社(1934年)に続き、1935年4月に「祐徳国際グラウンド」として開場。佐賀県では杵島郡大町町の杵島炭鉱グラウンド(現大町町民グラウンド)に次ぎ、二番目の専用野球場でした。

 公式戦初開催は二リーグ分立直後の1950年4月21日。福岡市に球団事務所を構えたセ・リーグの西日本が、中日を帯同しました。プロ野球とは言え、この年に結成された新興球団の西日本と、九州に馴染みの薄い中日の対戦には地元野球ファンもさほど興味を示さず、観衆はわずか1000人。試合は4本塁打を放った中日が12対1と圧勝しました。

 この試合で輝いたのは中日2年目の杉下茂投手でした。投げては9回を被安打4、1失点で完投。バットでは6回表に野本喜一郎投手から左翼ポール際へ満塁本塁打。「投手の満塁本塁打」はセ・リーグ史上初で、一リーグ時代から数えても5本目の貴重な一発でした。杉下は前年、明治大学時代の投げ込みの影響で右肩痛を発症。8勝12敗とプロでのスタートにつまづきましたが、2年目はこの試合で早くも4勝目(1敗)。大学時代にマスターしたフォークボールを武器に、その後も白星を重ねシーズンではチーム最多の27勝。209三振で奪三振のタイトルも獲得しました。

 公式戦から70年近くが経ち、地元でもプロ野球が開催されたことを知る人は少なくなりました。そんな中、杉下さん(93)は生涯唯一となる満塁本塁打を記録したこともあり「私にとっては縁起のいい球場」と今でも祐徳国際グラウンドを忘れていません。また、大学2年生(1947年)の夏には社会人野球の杵島炭鉱(大町町)とのオープン戦で佐賀県を訪問。登板はしませんでしたが「嬉野温泉に泊まって、ごはんを腹いっぱい食べさせてもらった」と戦後の食糧難のなか、炭鉱で潤い遠征費用も負担してくれた街を記憶に刻んでいます。

 巨人の監督を14年間務めた川上哲治も、現役時代このグラウンドに立ちました。初の公式戦が開催される半年前、1949年の暮れも押し迫った12月19日。その秋に組織されたセ・リーグのPRを兼ねたオープン戦で阪神と対戦。冷たい雨が降り続く中、10本の本塁打が乱舞し15対5で巨人が勝利。試合前夜、嬉野温泉に宿泊した川上さんは映画館で行われた「花形選手のど自慢大会」にも出演し、美声を披露したそうです。2000年秋、姪っ子が祐徳稲荷神社の門前商店街の一角に店を出した際には、関係者への挨拶のため50年ぶりに再訪。雨中のオープン戦を懐かしみました。

 祐徳稲荷神社は1949年に不審火で全焼。球場に関する資料の多くも焼失し、1957年に再建されるまでの混乱の中、球場がいつまで存在したか定かではないそうです。そんな中、「フォークボールの神様」「打撃の神様」と崇められた偉大な両選手が、“神”の前で刻んだ足跡はスコアカードや新聞にしっかり残されています。

【NPB公式記録員 山本勉】

調査協力・ 祐徳博物館
参考文献・ 西日本新聞 佐賀版(2000年9月30日、2010年11月11日)
写真提供・ 祐徳博物館