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【コラム】大腸ガンからの見事な復活劇。阪神・原口文仁が劇的なサヨナラ打

 その瞬間、甲子園球場が割れんばかりの大歓声に包まれた。6月9日、日本ハム戦。阪神にサヨナラ勝利を呼び込んだのは原口文仁だった。春季キャンプ直前の1月24日、大腸ガンを患い手術を受けることをSNSで公表。絶望の淵から這い上がってきた男が、同点で迎えた9回裏二死一、三塁の場面に代打で登場した。二、三塁となり、秋吉亮が投じたカウント1-1からの3球目、外角低めのスライダーに食らいつく。ライナーとなった打球は甲子園のファンの願いを乗せて、中堅手の前で弾んだ。

 4対3のサヨナラ勝利。その瞬間、ベンチからナインが歓喜の表情で飛び出してきた。もみくちゃにされた原口は矢野燿大監督とがっちり抱擁。指揮官はベンチ裏で涙を流し、原口はお立ち台で「本当にみんな祝福してくれてうれしかったですね」と最高の笑顔を見せた。

 苦難の道でも明るさを忘れなかった。ガン公表後、すぐに手術を行い、そこからリハビリの日々が続いたが、3月上旬には早くも二軍の練習に合流。4月の二軍練習前には円陣を組んだとき、原口が輪の中心に入り「人生を幸せに生きるコツは、小さな幸せを見つけること!アンテナを張っていくことが野球にもつながっていく。今日も小さな幸せを見つけて、練習を頑張りましょう!」とチームメートを鼓舞した。

 プロでは険しい道を歩んできた。2010年、帝京高からドラフト6位で阪神入団。しかし、12年に腰痛を発症し、同年オフに育成契約。13年にはシート打撃で死球を受け、左手尺骨を骨折。入団直後から強打の捕手になれると期待する周囲の声は多かったが、鳴尾浜のグラウンドにも立てない日々が続いた。背番号も「52」から「124」に。甲子園が、遠くかすんだ。それでも一軍で活躍するイメージだけは思い描いていた。転機は16年、金本知憲監督が就任したときだ。「超変革」の波に乗って、16年4月27日の支配下再登録から、トントン拍子にプロ初安打、初本塁打。オールスターにも監督推薦で出場するなど、打率.299、11本塁打、46打点でブレークイヤーを駆け抜けた。

 大腸ガンからの復帰戦は6月4日のロッテ戦(ZOZOマリン)だった。9回表一死三塁。4点差で勝っている場面ではあったが、「代打・原口」が矢野監督から球審へと告げられた。大歓声と拍手が阪神ファンだけでなく、敵のロッテファンからも送られる。原口は左翼席のファンに一礼し、打席に入った。

 「ロッテファン、タイガースファンの皆さんがたくさん声援をくれた。これからまた新しい野球人生が始まる、スタートするという意味でお辞儀させてもらいました」

 打席では初球から気持ちを込めてフルスイング。カウント1-2からの4球目も強振すると打球は左翼フェンスを直撃するヒットに。原口は懸命に走り、最後はヘッドスライディングで適時二塁打とした。ガン公表から131日目のスピード復帰。その裏には並々ならぬ努力があったが、原口の視線は未来をとらえている。

 「一軍にいるだけではダメ。結果を出すことが先につながると思う」

 一軍復帰が終着点ではない。大舞台で結果を残して、初めて同じ病気と闘っている人の力になれる。背番号94はこれからも、ひと振りに思いを込めるだけだ。

 【文責:週刊ベースボール】