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【球跡巡り・第23回】40年間にわたり猛牛軍団の戦いの舞台 日本生命球場

 大阪城を北に望み、JR大阪環状線の森ノ宮駅から徒歩5分。大阪のほぼ中央に位置しながら、下町的な雰囲気が漂う街に近鉄が準本拠地として使用した日生球場がありました。正式名称が「日本生命球場」だったことからわかる通り、日本生命保険相互会社が、所有する野球部の練習施設として1950年6月に完成させました。

 当初は社会人野球や高校野球などアマチュア野球がメインに行われ、近鉄が準本拠地としたのは1958年から。当時、近鉄の本拠地・藤井寺球場には照明設備がなく、ナイターは南海の本拠地である大阪球場を借りて開催していました。しかし、所有する南海の日程が優先され、使用料の負担も重荷だったことから、近鉄が費用全額を負担してナイター照明を設置しました。

 官庁街に近い立地もありグラウンドは狭小。拡張も思うように進まず、両翼まで90.4メートル、左中間、右中間は107メートル。ホームランの出やすい、投手泣かせの球場でした。その最大の“被害者”は、近鉄のエースとして活躍した鈴木啓示投手でしょう。NPB歴代4位の317勝を挙げた一方で、歴代最多560本の本塁打を浴びました。2番手の山田久志(阪急)の490本よりはるかに多く、ジェイミー・モイヤーが持つ522本の大リーグ記録も上回ります。

 560本塁打のうち日生球場では199本を許しました。しかし、恨み節はありません。「この560本が私の“バネ”であり“糧”やったね。打たれたからこそ、今度はやり返したると、常に反省して人一倍練習しましたよ。普通のピッチャーやったらこれだけ打たれたら野球続けられへんでしょ。だから自分にとっては立派な勲章。『失敗こそ財産』と思っています」。

 外野の膨らみが少ない上に、グラウンドは三塁からレフト方向に向けてわずかに下がっていました。マウンドも低く、投手に不利な条件が揃う中で、否応なしに低めに投げる投球を覚えた鈴木は、1968年8月8日の東映18回戦で日生球場初となるノーヒット・ノーランを達成。3年後の1971年9月9日には、西鉄相手に2度目の快挙を成し遂げました。「いいことにいつまでも酔っているのはアマチュア。打たれた1球にいかに反応するかがプロ」。1540試合が行われた日生球場で、この偉業を達成したのは鈴木だけでした。

 コンパクトな造りは、ファンにとってプロ野球を身近に感じられる環境でした。中京テレビ放送アナウンサーの佐藤啓さん(57)は、小学生の時に日生球場へ通いました。「ブルペンがファウルグラウンドにありました。近くまで行くと、ピッチャーの投げたボールから“シュルシュルシュル”と音がするんです。あっ、漫画に描いてあるのと同じだ! と感動しましたよ。7回になると応援団の人が紙テープを餅まきのようにばら撒くんです。それを拾ってグラウンドに向かって投げました。スタンドはいつもガラガラだったけど楽しかったなぁ。」都心にありながら、大量のコウモリも飛んでいたという昭和のスタンドを懐かしみました。

 野球協約上は準本拠地でしたが、1963年の74試合を最多に1980年代前半まで毎年40試合以上を開催。1984年に藤井寺球場にナイター設備が完成するまで、実質的には本拠地でした。最後の公式戦は今も語り草となっている1996年5月9日の近鉄対ダイエー戦。王監督就任2年目のダイエーは、開幕から苦戦を強いられ最下位に沈んでいました。この日も逆転負けを喫し、4連敗。ゲーム後、乗り込もうとしたバスが包囲され、生卵が投げつけられるという“事件”が勃発。感傷に浸るどころか、強烈な幕切れとなりました。

 球場は1997年12月に閉鎖。跡地は分譲マンションのモデルルームなどを経て、2015年4月に商業施設が開業しました。周辺道路に敷かれた球場をモチーフにした舗装パネルの上を、多くの買い物客が行き交っています。

【NPB公式記録員 山本勉】

参考文献・球場物語「日生球場」=東京プロ野球記者OBクラブ
写真提供・野球殿堂博物館