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【球跡巡り・第24回】「あの月に向かって打て!」の名言が生まれた 伊東スタジアム

 春、3月。相模灘の海はまぶしく、伊豆の山々は輝いていました。JR熱海駅からローカル線で伊豆半島の東海岸沿いを下ること30分。温暖な気候と温泉に誘われ、プロ、アマを問わず多くのチームが訪れた伊東スタジアムがあった最寄り駅の南伊東に到着しました。

 駅裏の高台、火山の噴火口だったという場所に球場が完成したのは1952年でした。プロ野球公式戦は球場開きとなった同年5月18日の東急対大映戦を始め、4試合を開催。7月23日の大映対毎日戦では、大映の飯島滋弥選手がプロ野球10人目の100本塁打を記録しています。

 三塁側スタンド裏に宿泊施設が完備されていたこともあり、キャンプ地として重宝されました。日本ハムの前身東映は球団を保有していた19シーズン(1954~1972年)のうち、1957年以外の18年間ここで春季キャンプを張りました。また、1979年に巨人が行った球界史上初の秋季キャンプは「地獄の伊東キャンプ」として、今も語り継がれています。

 シーズン5位に沈み、2年連続ペナントを逃したチームの立て直しを期す巨人長嶋茂雄監督の意向で、「V9」をほぼ経験していない18人の若手、中堅選手が徹底的に鍛え上げられました。当時の新聞を見ると、朝8時10分の散歩から夜10時終了のミーティングまでのスケジュールが“地獄のメニュー”の題字とともに記されています。

 中でも標高320メートルの馬場の平で行われた投手陣の走り込みはハードなものでした。オートバイのモトクロス場として造られた一周800メートルコースは、起伏の激しいデコボコ道。しかもゴール直前の80メートルは、傾斜角度が30度はあろうかという急勾配。ここを1周毎にタイムを計測され10周。これを投げ込みと強化トレーニングを終えた後に行ったので、まさに血ヘドを吐く壮絶さだったようです。この時のメンバー江川卓西本聖中畑清篠塚利夫らは後に主力へと成長。巨人はその後の10年間全てAクラスに入り、4度のリーグ制覇を果たしました。

 「あの月に向かって打て!」 球史に残る名言とされ、一人の野球選手を開花させたとされる言葉はこの球場で生まれました。

 東映がキャンプを張っていた1967年2月。この年から打撃コーチに就任した飯島滋弥が、入団3年目、まだ粗削りだった大杉勝男選手にかけたセリフでした。飯島はまず、街の電気屋を呼んでバックネットに裸電球を取り付けさせました。ナイター設備のないグラウンドで、夜間も選手に素振りをさせる工夫でした。そして夜間練習では、バットスイングの時に脇が開かないよう荒縄で大杉の上体と両腕を肘のあたりで縛り付けると、「あの月に向かって打て!」と伊豆の空に浮かぶ月を指さしたそうです。打撃フォームを小さく固めず、伸び伸びと豪快にバットを振れという意味でした。この光景を近くで見ていたのは1957年に球場支配人となり、毎年キャンプの世話をしていた前島優さん。昨年83歳で逝去され、お会いできませんでしたが、前島さんはその時の光景と耳にした奇妙なセリフを新聞のインタビューで語っています。

 入団年は1本塁打、2年目は8本塁打だった大杉はこの年、27本塁打とホームラン打者としての才能を開花させました。19年間ではNPB歴代9位の486本塁打。豪快なアッパースイングの礎は、冬の冷え込みが厳しくなく、月明かりの下でも夜間練習が出来た伊東スタジアムで築かれたのでしょう。

 伊東スタジアムは後年、老朽化が激しく1990年代前半で使用を中止。2004年に隣接のホテルと共に取り壊されました。跡地は市が運営する老人施設を経て、2013年に伊東市民病院が開院。伊豆半島の中核病院として、地域医療を支える拠点となっています。

【NPB公式記録員 山本勉】

調査協力・伊東市立伊東図書館
伊東市民病院
参考文献・朝日新聞 be on Saturday(2003年4月26日)
写真提供・伊東市野球連盟