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【球跡巡り・第34回】東京初のプロ野球専用球場 上井草球場

 西武新宿線の高田馬場駅から普通電車で22分。杉並区にある上井草駅は自動改札機が3つの、こぢんまりとした駅です。その南口改札を出て南西へ3分ほど歩くと上井草スポーツセンターがあります。かつてここに、東京で初めてプロ野球専用球場として造られた上井草球場がありました。

 建設したのは、今の西武新宿線系統の路線を運営していた旧西武鉄道(現西武鉄道の前身)。プロ野球創立の1936年に結成された東京野球協会(チーム名・東京セネタース)に出資していて、東京にプロ野球専用球場の建設を熱望していた野球界と、集客により鉄道輸送の増加を目論んだ旧西武鉄道の思惑が一致したのです。

 1936年8月に完成した球場は正式名称を東京球場といい、収容人員は2万9500人と資料に記されています。29、30日の2日間、落成記念の「東西対抗職業野球戦」でお披露目されると、シーズン終了までに21試合を開催。翌1937年は56試合を挙行し、産声を挙げたばかりのプロ野球の東京での知名度アップに貢献しました。

 ところが3年目の1938年は、わずか6試合と激減します。前年の秋、水道橋に後に“プロ野球のメッカ”と崇められることになる後楽園球場が完成したのです。今では信じられませんが、当時の上井草は都心から遠い郊外に位置付けされ、交通の便も悪かったのです。加えて旧西武鉄道の輸送能力も脆弱で、試合終了後すぐには電車に乗れず、何本か見送らなければならなかったそうです。時には、高田馬場まで戻るのに3時間近くもかかったとか。このような環境下では客足が遠のくのも必然で、以降一リーグ時代が終わる1949年まで上井草からプロ野球の球音は途絶えました。

 この球場が再び注目を集めたのは、戦後の東京六大学野球復活の時でした。太平洋戦争における敗戦で、学生野球の聖地である神宮球場が進駐軍に接収され、1946年に再開した東京六大学野球4年ぶりのリーグ戦は上井草球場が舞台となったのです。5月19日、試合前に六大学野球の選手が一堂に会し入場式。グラウンドの土をかむスパイクの音が、時代を象徴する調べでした。

 プロ野球は12年の時を経て、二リーグに分立した1950年にパ・リーグが8試合を行いました。8月4日はあいにくの雨が降る中、東急対毎日、阪急対大映の変則ダブルヘッダーを開催。しかも、前日に53ミリもの雨が降った影響でグラウンドは開始前から軟弱でした。第1試合の東急対毎日戦は16時13分に終了しましたが、グラウンド整備に時間を要し、第2試合の阪急対大映戦のプレイボールは17時17分。この日の日没時刻18時43分まで、1時間半を切っていました。ところが試合開始直後に雨脚が強くなり、17時23分から22分間の降雨中断。17時45分に再開されたゲームは皮肉にも両チームで27安打の乱打戦となり、ゲームセットは何と19時37分。日没から54分も経っていました。二リーグ制後、夜間照明なしで最も遅い時間まで戦った記録として残ります。

 結局、プロ野球開催はこの試合が最後となりました。前年の1949年には第4回国民体育大会の硬式野球会場として使用され、内野スタンドは拡張により収容人数4万7500人にもなっていました。記者席や選手更衣室なども設置されており、二リーグ分立直後の東京での球場不足問題を鑑みても、もっと試合が行われていても不思議ではありません。ここでも当時としては郊外に位置付けられていた立地問題が影響したのでしょうか。

 球場はその後、東京五輪開催の有力案浮上を機に洋弓場建設が計画されましたが、洋弓の競技種目からの除外で中止に。1964年に取り壊されると、1967年に軟式野球場4面の他、テニスコートやプールなどを備えた都営の総合運動場として生まれ変わりました。1979年には杉並区に移管され区営となり、1998年に冒頭の上井草スポーツセンターとして全面改装され、区民が集うスポーツの場として利用されています。

【NPB公式記録員 山本勉】

参考文献・「上井草球場の軌跡」 杉並区立郷土博物館
写真提供・野球殿堂博物館