【コラム】史上10人目の外国人日米通算2000安打、サッカー選手が夢だったDeNA・ロペスの野球人生
来日8年目、DeNAの助っ人野手が偉業を成し遂げた。10月24日の広島戦(横浜)、1回二死で打席に入ったホセ・ロペス。森下暢仁が投じた6球目、真ん中低め151キロの直球をとらえた打球は三塁頭上を越えた。ロペスは一塁塁上で雄たけびを上げたが、これで日本通算995安打。メジャー・リーグ通算1005安打と合わせて日米通算2000安打となった。外国人選手では史上10人目。「すごくうれしくて感情があらわになったね。ファンのみなさんの前で打てて良かった」とロペスはさわやかな笑顔を見せた。
1983年、ベネズエラで生を受けたロペス。幼いころから野球とサッカーを両立し、ブラジル代表のFWロナウドにあこがれた。サッカー選手になるのが夢だったが転機は15歳。野球でベネズエラのアンソアテギ州代表に選ばれ、ある試合後に同国のスカウトから名刺を受け取った。「ベネズエラでサッカーは有名じゃない。だから野球にシフトしていった」。別の試合で今度はアメリカのスカウトからも声をかけられ“サッカー離れ”を決意。アメリカで成功するため16歳で故郷を旅立った。17歳だった2000年にドラフト外でシアトル・マリナーズへ入団。4年後の04年7月31日にメジャーデビューを果たした。06年に球宴に初出場。チームではイチローと一、二番を組むなど、二塁手として順調にキャリアを重ねた。
09年の第2回WBCではベネズエラ代表として打率.417、2本塁打で優秀選手賞を受賞。シーズンも主軸を任され、キャリアハイの25本塁打、96打点。10年は88試合で四番を務めている。だが、同年限りでマリナーズを離れると、出場機会も減少。ロッキーズ、マーリンズなどを渡り歩き、同時に日本球界から関心を寄せられていることを伝え聞いた。「実際に3Aでもいい成績を残していたし、アメリカに残る選択肢もあった。ただ、やっぱりメジャーでプレーしたい。それを実現できる舞台はどこなのか。日本で言う一軍はメジャー。そう考えたときに、日本球界に強い興味を持つようになった」。ホワイトソックスからFAとなっていた13年1月、日本一連覇を目指す巨人が獲得を発表した。
巨人1年目は121試合に出場し、打率.303、18本塁打、55打点を挙げてセ・リーグ連覇に貢献。翌年も22本塁打をマークしたが、チーム事情から自由契約に。NPBの複数球団から獲得オファーが届く状況で、新天地にはDeNAを選んだ。「同じセ・リーグだし、環境にも慣れていた。ある程度は投手の特徴も知っていたから」。以来、6年間、チームの勝利のために懸命にプレー。スペイン語で「やんちゃ坊主」を意味する愛称「チャモ」も浸透した。
「移籍1年目から打撃でも守備でも、チームに貢献しようという意識でプレーしてきた。同時に、例えばチームメートがエラーしてしまったりしたら、声をかけてサポートしてあげたいという意識はずっとあった。大切なのは自分がチームにおいて何ができるかを考えてやることだ。それは今でも変わらない。もちろん6年間チームにいるので、ここが自分の家のように感じるし、愛着も増している」
とはいえ取り巻く環境は厳しくなっているのも事実だ。36歳という年齢、外国人枠、出場機会減、そして不振。今季のDeNAにおいて、ロペスのポジションは決して絶対的なものではなかった。8月26日には、故障以外で初めて二軍落ちを経験。だが、ロペスはくさらずに二軍で黙々と調整に励んだ。9月22日に一軍再昇格。そこからギアを上げ、偉業に到達した。
次なる目標は残り5本に迫る日本通算1000安打だ。日米両方で1000安打を超えれば、それは外国人で史上初の快挙になる。
【文責:週刊ベースボール】