【球跡巡り・第35回】巨人・川上哲治 史上初の100本塁打達成 水戸水府
JR水戸駅を出た2両編成のワンマン列車は、水戸城の空堀を利用した切通しを抜け3分で水郡線の常陸青柳駅に到着しました。1日の平均乗車人員100人あまり。駅舎もない小さな無人駅の近くに、プロ野球初の300勝投手スタルヒン(巨人ほか)や、打撃の神様・川上哲治(巨人)が球史を刻んだ水戸水府球場がありました。
1932年5月、水戸城のそばを流れる那珂川に水府橋が完成。これにより水戸市と対岸の那珂郡柳河村(現水戸市青柳町)の往来が容易になり、翌1933年4月に柳河村側の橋のたもとに陸上競技場を併設した県営球場が完成しました。
プロ野球初開催は一リーグ制最後の1949年。8月12日に行われた巨人対大映戦は、茨城県下でも初の興行とあって2万人が詰めかけました。その大観衆が沸いたのは、大映の先発投手がスタルヒンと告げられた時でした。戦前、戦中は巨人の大黒柱として199勝の活躍。しかし、プロ野球が再開した戦後は巨人への復帰を断り他球団に移籍。この年は大映に在籍し、通算7度目の古巣との対戦になったのです。
33歳になったスタルヒンに往時の快速球こそありませんでしたが、変化球主体の老獪なピッチングで打線をほんろう。2回裏、走者二塁のピンチを味方野手の好守で切り抜けると、以降は二塁を踏ませず、被安打5、8奪三振でシャットアウト。青田昇、川上哲治の主軸も、合わせて8打席ノーヒットに抑え、4奪三振と圧倒。翌年からの二リーグ分立でパ・リーグに在籍したスタルヒンにとって、これが巨人相手に最初で最後の完封勝利でした。
かつてのチームメイトに辛酸をなめた巨人ナインが、常陸のファンの前で躍動したのは翌年でした。二リーグ分立直後の1950年4月29日、国鉄対大洋戦に引き続き行われた変則ダブルヘッダー2試合目の対中日戦。試合前、地元水戸第二中学校のブラスバンド部員による「巨人の歌」のお披露目に勢い付いたのか、序盤から打線が爆発。初回に青田の満塁本塁打などで5点を先制すると、5回までに15安打、14得点の猛攻を見せました。
その後も攻撃の手を緩めません。ハイライトは6回裏でした。四番の川上が中日加藤一昭投手からレフトスタンドへ流し打った一打は、プロ野球史上初となる通算100本塁打。青バットの大下弘(東急ほか)とともに、終戦直後の日本を大きな放物線で勇気づけた“赤バット”川上のメモリアルな一打は、この球場で記録されたのです。続く青田が祝砲とばかりにこの日2本目の本塁打をレフトに放つと、六番山川喜作も左中間スタンドに叩き込みました。結成直後のセ・リーグではもちろん、球団創設14シーズン目を迎えた巨人にとっても初の「3者連続本塁打」でした。
茨城県の高校球児にもゆかりのある球場です。終戦直後の数年間は食料不足を補うため、グラウンドが畑として使われたこともありましたが、1933年の完成直後から1952年まで夏の甲子園予選の決勝戦を開催。西鉄などで活躍した豊田泰光内野手が高校3年生の夏、水戸商のキャプテンとして優勝を飾ったのもここでした。
1952年に市内新原に県営球場が新設されたこともあり、プロ野球開催は49、50年の2年間で6試合でした。このころから県民の野球熱が高まり、軟式野球の球場不足が課題に。そこで県は60年ごろ敷地を拡張し、野球場も整地して6面の軟式野球場に転用。青柳運動公園として野球愛好者が集いました。その後、管理が県から水戸市に移管され、74年の体育館建設に伴い再び規模は縮小されました。そのグラウンドも今はサッカー場になり、プロ野球史が刻まれた地を偲ばせるものは残っていませんでした。
ところで、水戸市での一軍公式戦は1992年に水戸市民球場(現ノーブルホームスタジアム水戸)で日本ハム対オリックス戦が行われて以降、30年近く開催されていません。今年9月に同球場でロッテ対日本ハム戦が予定されていましたが、新型コロナウイルス感染拡大により中止となりました。水戸市で再び、プロ野球の球音が響くことを心待ちにしています。
【NPB公式記録員 山本勉】