• セントラル・リーグ
  • 阪神タイガース
  • 広島東洋カープ
  • 横浜DeNAベイスターズ
  • 読売ジャイアンツ
  • 東京ヤクルトスワローズ
  • 中日ドラゴンズ
  • パシフィック・リーグ
  • オリックス・バファローズ
  • 千葉ロッテマリーンズ
  • 福岡ソフトバンクホークス
  • 東北楽天ゴールデンイーグルス
  • 埼玉西武ライオンズ
  • 北海道日本ハムファイターズ
  • 侍ジャパン

日本野球機構オフィシャルサイト

ニュース

NPBニュース

【記録員コラム】74泊75日

 昨シーズンは新型コロナウイルス感染拡大により、公式戦開幕が最終的に6月19日となり、試合数も143試合から120試合に削減されました。チーム移動による感染リスクを考慮し、セ・リーグは開幕直後に「東西集中開催」、パ・リーグは開幕2カード目から2カ月間にわたり「同一カード6連戦」という異例の日程となりました。

 それに伴い、多くのチームが近年は少なくなっていた長期遠征を強いられました。パ・リーグでは日本ハムを除く5球団が2週間のロードゲーム。セ・リーグでは6月19日の開幕戦を東京ドームで迎えた阪神が、本拠地甲子園で2020年の初戦を行ったのは7月7日(対巨人)。この間、東京ドーム、神宮、横浜、ナゴヤドーム、マツダスタジアムと転戦し、開幕戦の前夜から数えると19泊20日の長旅でした。

 まもなく始まる2021年のペナントレース。夏場には東京五輪が開催され、使用制限の掛かる本拠地球場もある中でどんな日程か見てみると、日本ハムに6月の交流戦明けから7月中旬にかけて27泊28日という長期遠征が組まれていました。この間の8カードはホーム、ビジターそれぞれ4カードとバランスは取れていますが、ホームの4カード全てを本拠地の札幌ドーム以外で開催するため、このような編成になったのです。

 6月17日に札幌から福岡入りし、大阪→静岡→仙台→那覇→旭川→千葉→釧路→帯広と日本列島を東奔西走して20試合を興行。7月14日、帯広でのデーゲーム後に札幌に帰るとして、この間の総移動距離は約9500kmにもなります。平時であってもかなりタフな移動ですが、今回はそこにコロナ禍の社会情勢も加わります。無事に日程が消化されることを祈ります。

 さて、かつて日本のプロ野球ではどんな長期遠征が行われたのでしょうか。シーズンオフの間に古い資料、スコアカードをめくってみました。

 まず思い浮かぶのは、阪神の“死のロード”です。本拠地甲子園が夏の高校野球大会で使えなくなるため、大阪ドーム(現京セラドーム大阪)が完成する1997年まで毎年夏の恒例行事となっていた長期遠征です。ただし、1950年代は高校野球大会の日程が短かったこと、1960年~70年代は京都の西京極球場を使用したことで、2週間程度にとどまっていました。1980年代になり軒並み20泊前後と長期化し、1980年には最長となる22泊23日の記録が残ります。

 1970年代に流浪の球団と呼ばれたロッテ(現千葉ロッテ)も多くの移動を強いられました。本拠地としていた東京スタジアムが1972年に閉鎖されると、翌1973年は本拠地が定まらず東京都を保護地域として後楽園、神宮、川崎球場を使用。さらに仙台の宮城球場(現楽天生命パーク宮城)を準フランチャイズとし26試合を行っています。選手、首脳陣のほとんどは拠点を東京周辺に置き、仙台ではホテル住まいでした。9月4日の日生球場から10月1日の西宮球場まで、この間に宮城球場で9試合を行いながら28泊29日という長期の旅を余儀なくされました。

 プロ野球にフランチャイズ制が確立されたのは1952年でした。これによりホームとビジターがはっきりと分けられ、日程編成も同一球場、もしくは近隣球場における同一チームとの3連戦が基本となりました。また同じエリア内に同一リーグのチームがあると、ビジターでも遠征をしなくてもよくなりました。前掲の阪神やロッテは特異なケースで、フランチャイズ制導入以降の遠征は長くても2週間程度に抑えられているようです。

 球史における過酷な遠征は、プロ野球が二リーグに分立した1950年からフランチャイズ制が確立されるまでの2シーズンの間に刻まれています。一リーグ制だった1949年は8チームでしたが、1950年は両リーグで15チーム(セ8、パ7)と倍増しました。日程編成は一リーグ時代同様、4チームによる同一球場での変則ダブルヘッダーが基本でしたが、チーム数の増大により一リーグで使用していた後楽園、甲子園、西宮の三大球場だけでは消化できなくなりました。さらに1950年のセ・リーグを例にとれば、東京、名古屋、京都、兵庫、広島、下関、福岡と球団所在地が各地に分散。必然的にそれらの専用球場で開催するとともに、新規のプロ野球ファン開拓のために全国行脚も行いました。

 このような状況の下、1950年の二リーグ分立時に九州の福岡市に球団事務所を構えセ・リーグに新規加盟した西日本パイレーツは、この年になんと74泊75日、2カ月半にも及ぶ驚愕の長期遠征を行っています。

 「西日本パイレーツ?」。頭の中にクエスチョンマークが浮かんでも不思議はありません。セ・リーグ結成時に主導的立場だった読売巨人が、九州にも球団が欲しいと考え福岡市に拠点を張る同じ新聞社の西日本新聞社に声をかけて誕生した球団でした。しかし、福岡にはパ・リーグに所属する西鉄クリッパース(後の西鉄ライオンズ)もあり、わずか1年で経営に行き詰まります。翌年2月には西鉄と合併。NPBの長い歴史の中でも唯一、1シーズンしか存続しなかった“幻の球団”なのです。

 74泊75日―。プロ野球史上最長となる過酷な遠征は、いかなる事情で組まれたのでしょう。次回は西日本の足跡をたどりながら、残されたエピソードを紹介したいと思います。

【NPB公式記録員 山本勉】

新着ニュース

関連ニュース