【記録員コラム】伝統の一戦 トリビア「球場」
プロ野球公式戦が始まった1936年から現存する巨人、阪神、中日の老舗3球団の対戦が、相次いで節目の2,000試合を迎えています。5月11日に阪神-中日戦(甲子園)、15日に巨人-阪神戦(東京ドーム)が行われ、巨人-中日戦は7月6日の前橋で到達します。
中でも巨人-阪神戦は伝統の一戦と言われ、数々の名勝負を刻んできました。「伝統の一戦」―。なんとも素敵なフレーズですね。スポーツニッポンの内田雅也記者が昨年12月13日付け紙面で記した「内田雅也が行く 猛虎の地(13)」には、『この言い方が定着したのは戦後、特に1949年(昭和24年)から50年にかけての2リーグ分立前後と思われる』とあります。両チームの誕生からわずか10数年で“伝統”とは驚きです。当時隆盛を極めていた東京六大学野球の「早慶戦」に負けじと、プロ野球は東京―大阪の対抗という図式を作り、盛り上がりを期待したのでしょう。
さて、名勝負の追憶は報道各社にお任せし、ここでは球場、観衆、審判員にスポットをあて、トリビアで伝統の一戦を振り返ります。1回目は「球場」編です。
【球場】阪神が後楽園球場でサヨナラ勝ち
2,000試合の開催球場の内訳は次の通りです。
甲子園 | 940 | 山本 | 1 | 豊橋市営 | 1 |
---|---|---|---|---|---|
後楽園 | 549 | 上井草 | 1 | 宇都宮総合 | 1 |
東京ドーム | 415 | 西京極 | 1 | 新発田市営 | 1 |
西宮 | 32 | 中百舌鳥 | 1 | 松江市営 | 1 |
札幌円山 | 19 | 藤井寺 | 1 | 高崎城南 | 1 |
大阪 | 11 | 長野市営 | 1 | 平和台 | 1 |
福岡ドーム | 9 | 旭川市営 | 1 | 下関 | 1 |
洲崎 | 5 | 函館市民 | 1 | 岡山県営 | 1 |
大連満倶 | 2 | 鳴海 | 1 | 長崎県営 | 1 |
記念すべき初戦は1936年7月15日、愛知県名古屋市にあった山本球場で行われました。「センバツ発祥の地」としても知られるこの球場での開催は、この1試合だけ。1940年には現在の中国・大連でも行われ、8月3日にタイガースの三輪八郎投手が、球団史上初となるノーヒットノーランを達成しています。
「巨人-阪神」と言えば昔は後楽園で、今は東京ドーム。「阪神-巨人」と言えば甲子園ですが、一リーグ時代の1947年まではそうとは限りませんでした。当時は1つの球場に数チームが集まり、変則ダブルヘッダーを開催していました。したがって、甲子園で「巨人-阪神」戦が9試合、後楽園では「阪神-巨人」戦が24試合も行われています。
1947年6月1日に後楽園で行われた一戦は「阪神-巨人」で、阪神が後攻でした。試合は4対4の同点で延長戦に突入。迎えた12回裏、阪神は1死二・三塁のチャンスで、四番藤村富美男がレフト前に安打を放ちサヨナラ勝ち。当時はまだフランチャイズの概念はありませんでしたが、巨人の“本拠地”とも言うべき後楽園で、阪神が劇的勝利を飾ったのです。この日は日曜日で、スタンドには33,541人の観衆が詰めかけていましたが、巨人ファンにとっては悔しさ倍増の敗戦だったことでしょう。
阪神にとって、巨人戦は多くの集客が見込まれ“ドル箱カード”とも言われます。1961年以降で、両チームの本拠地である後楽園、東京ドーム、甲子園以外の球場で行われた試合は28試合ありますが、27試合は巨人の主催ゲームで、阪神は1967年10月7日に岡山県営球場で開催した1試合(6回表1死、降雨コールドゲーム)のみです。したがって、阪神主催の「阪神-巨人」戦は、1967年10月8日の28回戦以降、55年間、684試合連続して甲子園球場で行われています。
【NPB公式記録員 山本勉】