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【記録員コラム】伝統の一戦 トリビア「審判員」

 トリビアで伝統の一戦を振り返る最終回は「審判員」編です。

【審判員】戦後初の伝統の一戦は、アルバイト審判員で行われた

 プロ野球はここまで6万を超す公式戦を開催していますが、審判員の「一人制」は一度もなく、必ず二人以上で行われています。ただし、連盟と契約をしていない審判員を起用し、急場をしのいだことが2試合ありました。

 そのうちの1試合が、戦後初の両軍対決となった1946年5月3日の藤井寺球場での一戦です。プロ野球はその1週間前の4月29日に再開しましたが、戦後の混乱期とあり審判員を配置するのも一苦労。この日関西地区では、西宮球場でゴールドスター対グレートリング戦も行われた影響で、巨人対阪神の試合には金政卯一審判員しか手配できなかったのです。

 そこで連盟は、「加藤」という人物に審判員を依頼しました。試合は金政審判員が球審を務め、加藤氏が塁審に立つ二人制で15時10分にプレイボール。戦後初の伝統の一戦は、420人の観衆が見つめる中、塁審に“アルバイト審判員”を起用して行われたのでした。

 審判員のユニフォームは着ていたのでしょうか。グラウンドで二人の連携はスムーズにいったのでしょうか…。試合はスコアカードの雑記欄に記されるような事象も起こらず、1時間16分でスピーディーに終了しました。加藤氏は、その3日後に同じく藤井寺で行われたグレートリング対阪神戦でも塁審を務め、一人制審判員阻止に貢献。その後グラウンドに立つことはありませんでしたが、出場試合数「2」はしっかりとNPBの公式記録に刻まれています。

 ところで、現在も下の名が不詳の「加藤」という謎の人物は誰だったのでしょう。当時、関西地区に縁があった球界関係者を調べると、1944年に南海で選手兼任監督を務め、この年は球団で事務主任に就いていた加藤喜作(きさく)氏が有力です。果たして、一人制の奇策より喜作に頼れ、だったのでしょうか。

 両チームの対戦は、担当する審判員にとっても特別なものだったようです。

 「巨人戦は毎試合テレビで全国中継され注目されていましたが、阪神戦は別格でしたね。我々も巨人対阪神戦の球審を任されて一人前。そこを目標に仲間と切磋琢磨し、技術を高めました。割り当てに初めて名前があった時は嬉しかったです」

 30年を超す長きにわたりセ・リーグのグラウンドに立った審判員OBの言葉です。

 「伝統の一戦」で球審を担当した回数を調べてみました。20位までは次の通りです。(太字は現役)

筒井 101 竹元 55 笠原 46
岡田 87 橘髙 55 井上 45
谷村 68 福井 54 国友 42
友寄 64 眞鍋 52 井野 41
63 富澤 48 久保田 40
山本文 60 松橋 47 田中 39
円城寺 59 小林毅 47 杉永 39

 唯一、3ケタとなる101回の球審を務めた筒井修氏は、一リーグ時代の1947年に審判員となり1976年まで在籍。30年間で3452試合に出場し、日本シリーズには歴代2位の17回出場。1991年に競技者表彰で野球殿堂入りを果たしています。審判員を務めた30年間の両チームの対戦は751試合でしたから、7.5試合に1回はマスクをかぶったことになります。1949年に甲子園が90,000人の大観衆で埋まった試合も、1956年のナイター開きの試合も「球審・筒井」でした。現役最多の橘髙審判員でも55回ですから、101回の球審は今後も不倒の数字と言えるでしょう。

 次の節目となる2,500試合は20年後、3,000試合は40年後になります。名勝負と記録の積み重ねで、伝統の一戦がより輝きを増すことを期待します。

【NPB公式記録員 山本勉】