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【球跡巡り・第46回】南海ホークス栄光の歴史を刻んだ 大阪スタヂアム

 大阪における商業の中心地・難波。多数の鉄道路線が乗り入れミナミの玄関口として機能するこの地に、昭和の時代にあまたの球史を刻んだ大阪球場がありました。南海ホークス(現福岡ソフトバンクホークス)が、郊外に所有する中百舌鳥(なかもず)球場に代わる専用球場として1950年に建設し所有。終戦から5年。焼け跡にバラックが建ち並ぶ街に、こつ然と姿を現した鉄筋コンクリートの球場は「昭和の大阪城」とも言われました。

 1951年7月に関西の球場としては初となるナイター設備も完成。難波の夜空に放たれる光彩は、復興途上にあった府民の心を潤す“光”になりました。南海のほか、近鉄、阪神、松竹と関西に居を構える球団が使用し、この年は159試合を開催。翌1952年にフランチャイズ制度が始まると、南海、近鉄(1952~57年)が本拠地とし、1953、54年の2年間はセ・リーグの大洋松竹も名を連ねました。

 それでも大阪球場の主役は南海でした。山本(後に鶴岡と改姓)一人監督の下、1951年にパ・リーグ初優勝を飾ると、そこから3連覇を含み5年間で4度のリーグ制覇。日本シリーズでは巨人にことごとく敗れましたが、セの巨人、パの南海として2リーグ分立直後のプロ野球の二枚看板になりました。その時代に活躍した、一塁飯田徳治、二塁岡本伊三美、三塁蔭山和夫、遊撃木塚忠助は「100万ドルの内野陣」と言われ、華麗な守りと力強い打撃で大阪球場を埋めたファンを魅了しました。

 球場が最もにぎわったのは1959年のシーズンでした。入団2年目の杉浦忠投手が38勝4敗と獅子奮迅の活躍を見せ、4年ぶりにリーグの覇権を奪回。前年逆転優勝を許した西鉄との対戦は黄金カードとなり、主催66試合で球団新記録となる85万8869人を動員しました。日本シリーズでは杉浦の4連投4連勝の離れ業で、宿敵巨人を倒し悲願の日本一に。それを祝し大阪球場前をスタートして行われた“御堂筋パレード”には、沿道に20万人以上が詰めかけ紙吹雪が乱舞しました。

 広島を初の日本一に導いた「江夏の21球」の白熱のドラマも大阪球場が舞台でした。近鉄と広島が戦った1979年の日本シリーズ第7戦。小雨が降る中での9回裏、4対3とリードしていた広島が無死満塁のピンチに見舞われます。ここから江夏豊投手は、佐々木恭介を三振に斬り、続く石渡茂のスクイズを見抜き、三塁走者藤瀬史朗を塁間で刺します。直後に石渡から三振を奪い、広島が初の日本一を決めました。歓喜と悲劇が交錯した深みのある戦いは、今も名勝負として語り継がれています。

 パ・リーグ初年度の1950年から1966年までの17年間で9度のリーグ優勝。それ以外の8年はいずれも2位と圧倒的強さで黄金時代を誇った南海も、1973年の優勝を最後に低迷期に突入します。1978年~1986年の9年間は最下位5回、5位4回。繁華街のド真ん中で球場の外には多くの人がいるのに、大阪球場のスタンドだけは閑古鳥が鳴く惨状が続きました。そして1988年、球団を保有する南海電鉄はホークスのダイエーへの譲渡を決定し、本拠地も福岡へ移転することになりました。

 南海として最後のゲームとなった10月15日の近鉄戦には3万2000人の観衆が詰めかけました。ミナミのビルの谷間に夕日が沈み、暮れなずむ大阪球場に監督の杉浦が立ちました。「ホークスは不滅です。ありがとうございました、行ってまいります。」サヨナラではなく「行ってまいります」と言った杉浦の“気持ち”に、多くのホークスファンが涙を流しました。

 大阪球場は翌1989年からの2年間で、後身の福岡ダイエーホークス戦も含め17試合を行いましたが、難波地区の再開発計画に伴って閉鎖が決定。41年間で3049試合の公式戦を行い、野球場としての使命を終えました。球場取り壊し前には意外な活用方法で注目を浴びます。何と住宅展示場となり、熱戦を繰り広げたグラウンドの至る所に大小の住宅が建てられたのです。これは宮部みゆきの推理小説『火車』の謎解きの材料にも使われました。

 1998年10月に完全閉鎖され、球場も解体された跡地は「なんばパークス」として商業施設や都市公園などで構成された複合施設に生まれ変わり、多くの人が行き交っています。かつて投手板とホームベースがあった位置には記念プレートが埋められ、在りし日の球場を偲ぶことができます。また、商業施設の9階にはメモリアルギャラリーがあり、南海ホークスに関連する記念品が展示され、懐かしい映像も放映されています。

【NPB公式記録員 山本勉】

参考文献・「開場40周年記念 大阪球場写真集」大阪スタヂアム興業株式会社
写真提供・野球殿堂博物館