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【球跡巡り・第52回】北海道のアマチュア野球の檜舞台 札幌市営中島球場

 「アジア最北の歓楽街」といわれる北海道札幌市のススキノ。そこから南へ5分ほど歩くと、都会のオアシスと称される中島公園があります。四季折々、さまざまな表情を見せ市民憩いの場所となっているこの地に、北海道の球史を刻んだ市営中島球場がありました。

 その歴史は古く、開設は100年以上も前。1918年に開催された北海道博覧会の会場跡地を整備して造られました。球場と言っても戦前はバックネットとベンチだけがある“草っぱら球場”でしたが、外国チームを招いて国際親善試合や、全道規模の少年野球大会が開催されました。

 近代的野球場に生まれ変わったのは1949年。札幌市の「創建80周年自治50周年記念事業」の最大事業として、両翼94メートル、中堅111メートル、2万人収容のスタンドにスコアボードも備えた新球場が完成しました。

 プロ野球は1951年から53年にかけて5試合を開催。1951年8月10日に行われた巨人対名古屋17回戦では、名古屋打線が球史に残る猛打を見せました。巨人が繰り出した先発の中尾碩志投手を含む3投手から毎回の21安打。しかも出場選手全て(9人)が2安打以上の「出場全員マルチ安打」を記録。先発全員マルチ安打はこの試合も含め9回ありますが、出場した全員がマルチ安打を記録したのは90年近いプロ野球で、この日の名古屋打線だけです。

 札幌市における戦後のプロ野球は主に円山球場が舞台で(351試合開催)、中島球場ではアマチュア野球を開催。北海道の野球選手にとっては檜舞台で、「北の甲子園」であり、「北の神宮」であり、「北の後楽園」でした。北海道野球協議会の理事長を務める柳俊之さん(74)は、小学生の時に両親と一緒に客席で社会人野球を観戦。「内、外野のスタンドいっぱいにお客さんが入っていました。初めて見る光景で、子ども心に“自分もこのようなところで野球をしたい”と思いました」と、衝撃的だった記憶を鮮明に覚えています。

 岩見沢東高校1年生の6月、その憧れの中島球場で行われた第2回春季全道大会に控え選手ながらベンチ入り。3年生となって迎えた4回大会ではエースとしてマウンドに立ち、チームをベスト4に導きました。その後関東での大学生活を経て、地元の電電北海道に入社。再び中島球場が主戦場になりました。

 内野スタンドが低く、選手との距離感が近いのがこの球場の特徴でした。「投球練習をするブルペンは一・三塁のファウルグラウンドにありましたが、手を伸ばせばスタンドに届く距離。職場の仲間たちが近くまで来て、声をかけてくれるんです。力になりましたよ」。1970年から78年まで9シーズン選手、監督として在籍し、後楽園球場で行われた都市対抗野球には71年から補強を含めて8年連続出場。大昭和製紙北海道(白老町)の補強で出場した74年の第45回大会では、見事に初優勝。後楽園のマウンドで躍動し、MVPにあたる橋戸賞を獲得した右腕は「中島球場も投げやすくて、いい感じのマウンドでした」と、郷里の聖地を懐かしみます。

 忘れられない情景があります。監督としてチームを率いて2年目の1977年。都市対抗野球北海道地区の代表を決める決勝リーグ戦を勝ち抜き、中島球場のグラウンドで胴上げをされました。「あの時、スタンドで応援していた会社の仲間たちの盛り上がりは凄かったですね。後で写真を見たら、胴上げに合わせてみんながバンザイ、バンザイとやっているんです」。少年時代にその後の道しるべとなった場所で迎えた、野球人としての至福の時間でした。

 全道の野球選手から愛された球場でしたが、街の発展により周辺が都心となったため、中島公園の利用計画も変更され、1977年ごろ麻生地区への移転が決定。1980年7月の社会人野球大会をもって、60年以上の歴史に幕を閉じました。跡地は公園として再整備され、一角には北海道立文学館が建てられています。

【NPB公式記録員 山本勉】

調査協力・柳俊之さん
札幌市公文書館
参考文献・「プレイボール! -北海道と野球をめぐる物語-」北海道博物館
写真提供・札幌市公文書館