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【球跡巡り・第54回】沖縄野球隆盛の起点となった野球場 沖縄県立奥武山野球場

 1972年の本土復帰から50年の節目を迎えた沖縄県。5月17日に那覇市で行われた西武対ソフトバンク戦の先発投手は、西武が與座海人、ソフトバンクが東浜巨。地元沖縄尚学高校出身選手の投げ合いとなり盛り上がりました。その舞台、沖縄セルラースタジアム那覇が建つ場所には、かつて沖縄初の野球場として造られた奥武山球場(後に沖縄県立奥武山野球場と改称)がありました。

 完成は1960年11月。米軍統治下だったこともあり、22万ドルの援助金を得て建設されました。両翼91.4メートル、中堅122メートルの規格は本土の野球場と比較しても遜色ありません。ただし、スタンドは三塁側が左翼ポール付近までコンクリート製でしたが、一塁側は敷地の問題もありダッグアウトの上まで。そこから右翼ポールにかけては土盛りの芝生スタンドと、珍しい構造でした。

 奥武山球場で沖縄初のプロ野球が開催されたのは1961年。5月20日からの西鉄対東映2連戦でした。米軍から借りたジープに分乗して行われた19日夜の両軍選手の市内パレードには、沿道に10万人が押し寄せる熱狂ぶり。試合の入場料はネット裏特別席が4ドル(1440円)。日本シリーズよりも高く、沖縄の平均家賃のほぼ半分でしたが、2試合で3万人の観衆が詰めかけ盛況でした。

 その試合でボールボーイを務めたのは沖縄高校(現沖縄尚学高校)2年生で、後に広島、阪神で投手として活躍し通算119勝を挙げた安仁屋宗八さんでした。「フリーバッティングで、西鉄の中西(太)さんや豊田(泰光)さんがポンポンと打球を外野スタンドまで飛ばしていました。プロ野球の選手はすごいなあと思いましたよ」。60年以上前の衝撃が、今も脳裏に焼き付いています。

 安仁屋さんは高校3年生の夏、その右腕でチームを甲子園へ導きました。これは沖縄勢初の南九州大会を勝ち抜いての晴れ舞台出場でした。それまでは宮崎や鹿児島の厚い壁に夢を阻まれていましたが「沖縄に野球場がなかったことが、本土とのレベルの差になっていた」と振り返ります。

 「奥武山が出来るまではフェンスのない校庭でしか試合をやったことがなかった。外野にラインを引いて、そこを越えたらホームラン、ゴロで抜けたら二塁打。マウンドの高さもバラバラでしたね」。1958年の第40回記念大会に甲子園出場を決めた首里高校は、監督がたらいにピンポン玉を転がし、クッションボールの練習をして試合に臨んだエピソードも残ります。

 そんな境遇も球場の完成により一変し、念願だった本土チームとの交流も始まりました。「当時、高野連会長だった佐伯達夫さんのサポートもあり、京都の選抜チームが来島して奥武山で試合をやりました。甲子園出場なんて考えたこともなかったけど、あの時の交流は大きかったです」と述懐。その後も全九州や全鹿児島などのチームが来島。沖縄野球のレベルは徐々に向上し、1968年夏には興南高校がベスト4進出。そして安仁屋さんがパスポートを持ち甲子園に行ってから37年後の1999年春、沖縄尚学高校が沖縄県勢初の全国制覇を成し遂げました。今日の沖縄野球の隆盛は、奥武山球場の完成が起点になっていると言えるでしょう。

 プロ野球は初の興行が盛況だったことから、翌1962年にも3試合を開催しましたが、日本復帰の1972年までに行われたのはこの5試合だけ。移動費や滞在費などの経費を考慮すると、「海外」だった沖縄での継続開催は容易ではなかったのです。日本に復帰して3年目の1975年5月、沖縄初のセ・リーグ公式戦として行われた大洋対広島2連戦を含めても、奥武山球場でのプロ野球開催は7試合でした。

 主にアマチュア野球のメイン球場として使用されましたが、2000年代に入ると施設の老朽化も著しくなり2006年11月で閉鎖され解体。その跡地に2010年4月に完成したのが、前述の沖縄セルラースタジアム那覇(那覇市営奥武山野球場)です。県内唯一のプロ野球開催球場として、開場以来24試合を興行。毎年、夏の高校野球沖縄県大会の予選も行われます。

 球場の正面玄関を入った床面には「沖縄野球の聖地 奥武山」と記されていました。1894年に始まったとされる沖縄での野球。1960年以降の隆盛を見守るこの地は、これからも球史を刻み続けます。

【NPB公式記録員 山本勉】

調査協力・安仁屋宗八さん
参考文献・「週刊ベースボール」1961年6月5日号
写真提供・那覇市営奥武山野球場

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