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【球跡巡り・第56回】鉄腕・稲尾が胸をときめかせた 湯の街の野球場 別府市営球場

 街のいたるところで湯けむりがあがる大分県別府市。源泉の数が2200以上もあり「泉都」と言われる街に、数々の球史を刻んだ別府市営球場がありました。JR別府駅からなだらかな上り坂を歩くこと15分。こけむした自然石の上に建つ別府市総合体育館(べっぷアリーナ)に着きます。野球場はこの場所に、2001年の夏まで存在しました。

 完成は1931年10月。周囲に松林があり、別府の景観を望める地に県内初の本格的野球場として誕生。市内に旧制中学の野球部すらなかった時代。野球場建設は、ゴルフ場などとともに国際観光やスポーツ観光の受け皿として考えられたと伝わります。球場を囲む外壁やスタンドはこの地から出た別府石と呼ばれる自然石を積んで造られ、環境に調和した建造物でした。

 球場が賑わったのは、終戦直後のことでした。国際的な温泉保養地で目立つ軍需施設もなく戦災を免れた別府の街には、米軍が進駐しキャンプ兵舎の建設が始まりました。その工事に携わった星野組と植良組は、経済力をバックに相次いで硬式野球チームを結成。ここを本拠地とし、プロ野球出身の選手や有望な若手選手を集めました。

 星野組には、後にパ・リーグ3球団で監督を務め8度のリーグ優勝を飾った西本幸雄や、大分経専(現大分大)時代にゲーム23奪三振を記録した荒巻淳。植良組には巨人時代に「逆シングルの名手」として鳴らした白石勝巳と、一流選手が名を連ねました。年2回行われた両チームの定期戦はもちろん、練習の時でさえもひいき選手を一目見ようと、別府駅から坂道を上って球場に向かうファンの列が続いたそうです。

 いまも語り継がれる対決があります。1947年にここで春季キャンプを張った巨人は打ち上げに、星野組と練習試合を行いました。「打撃の神様」と呼ばれた巨人の主砲・川上哲治と、その豪速球から「火の玉投手」の称号を与えられた星野組のエース・荒巻が対戦。結果は川上が弾丸ライナーを右翼のネットに突き刺しプロの意地を見せつけましたが、真っ向勝負を挑んだ荒巻もあっぱれでした。

 別府市と言えば、1961年に今もプロ野球記録のシーズン42勝を挙げるなど、西鉄黄金期のエースとして活躍した稲尾和久投手の故郷です。稲尾さんは中学時代、この球場で胸をときめかせる出来事がありました。

 1950年4月23日に球場の改装を記念して行われた初のプロ野球公式戦、西鉄対東急戦の時のことです。チケットは完売で球場には入れません。せめて選手たちの姿を見ようと、友達と選手入口で待ち構えていました。やがて東急のナインがやって来て、その中に少年たちの憧れの的だった“青バット”の大下弘選手もいました。「僕が手を出すとね、ポンと叩いてくれたんですよ。あの時の感触は忘れられません」と語っています。

 試合が始まりライトスタンドの塀の外で遊んでいると、ひときわ高い歓声が起こり、稲尾少年の頭上を白球が越えて行きました。8回表に大下が放った飛距離122メートルの場外弾でした。その打球は川の中へ落下し、少年たちも先を争ってそこへ飛び込みました。そのボールを掌中にしたのは稲尾さんでした。「その頃、硬球なんて宝物みたいなものでしょ。もう、嬉しくてね。家に持って帰って大事に飾っていましたよ。」のちにNPB歴代8位の276勝を挙げる右腕が、初めて硬球を手にした瞬間でした。

 球場の歴史にピリオドが打たれたのは冒頭のように2001年でした。市の総合体育館建設用地として白羽の矢が立ち、閉鎖を余儀なくされたのです。それに伴い行われた「別府球場お別れセレモニー」には稲尾さんも駆けつけ、記念の紅白試合でマウンドに立ちました。大下のホームランボールを拾った時12歳だった少年は、この時64歳に。湯の街の野球ファンで沸いた球場は、大投手の美しい投球フォームを見納めに、静かに幕を閉じました。

 閉鎖から20年以上が経過し、その史実も市民の記憶から薄れていく中、嬉しいニュースが届きました。日本に野球が伝わって150年の節目を記念した「野球の聖地・名所150選」に認定されたのです。90年前に積まれ、すっかりこけむした自然石が、大分県最古の球場だった歴史を偲ばせています。

【NPB公式記録員 山本勉】

参考文献・「獅子たちの曳光」赤瀬川隼
写真提供・稲尾和久記念館